涙の跡を辿りて
5・愛という名の心
 ヒトカは遂に大地の上に横たわった。
 薔薇や棘を身体の下に敷き、その寝心地は最悪である。だけれども、ヒトカは何も感じない。一体何の為に指輪を探しているのか解らなくなってきたのだ。
 ケセ。
 今すぐ逢いたいよ。
 逢わないと、ヒトカ、壊れちゃう。
 お願い、ケセ。
 ヒトカを抱き締めて。
 ぶつぶつと、ケセは独り言を呟く。空には何も無い。何に祈れば良いのかも解らない。
 だってディオヴィカ様は助けてくれない。
 力にならぬのなら何の為に祈るというのだろう?
 ヒトカは知らなかった。
 ただ、心のよすがに祈るという事を。
 手に入れた鉛の指輪を、ヒトカはくるくると回してみせる。
 涙が出てきた。その涙を、ヒトカは必死に拭う。ところがさっきまで緑の茎や棘、花弁、土と格闘していた手である。目の中にゴミが入る。砂でごろごろする。
《ああ、もう!》
 ヒトカは叫んだ。水で洗わねば。しかし、水場は何処だ? 確か、上になかったか?
 そう考えると、上の世界が、ミリエルが座して待っている世界が恋しく思えてきて仕方が無かった。身体を起こし立ち上がり、目の前に立ちはだかる絶壁を見やった。涙の所為で霞んでいて見えないが、あの上に女王の巫女はいる。ヒトカを信じて。
 だが、一旦登ったらもう一度降りてこられるのだろうか? そもそも茨だらけの絶壁を登ることなど可能なのだろうか?
 ヒトカは考えると憂鬱になる。
 ヒトカは今、目を洗いたいだけなのに!
 そんな事を考えていたら、あの時の事を思い出し、ヒトカの涙は益々止まらなくなる。
 あの時の事。
 ヒトカの心の中に大事にしまいこまれた出来事。

 精霊の樹海で模写するケセに弁当を届けに行った事があった。ケセは笑顔でヒトカから弁当を受け取り、そして、口づけを交わす。
「君は、僕の奥さんみたいだね」
 そんな言葉に舞い上がってしまった事はケセには秘密だ。
 だけれども、模写を休んでケセが弁当を広げ、ヒトカがそれを見守っているとヒトカの右目がごろごろし始めた。
 風の精が笑っている。どうやらささやかな悪戯心を起こしたらしい。必死で目を擦り始めたら、ケセがその手を止めさせた。
「馬鹿だな。眼球に傷が付く」
「だっテ。痛い」
 ヒトカの言葉を無視して、ケセはヒトカの右目に口づけた。
 ヒトカの顔が真っ赤になる。耳までもが赤くそまる。だけれども、恥ずかしいと思うのに、どうしてだか性的な興奮は感じられなかった。
 眼球を、舌がなぞる。そして、吐息を残して顔が離れた。
 ぺっと、ケセは何かを吐き出す。
 ヒトカは何とはなしに自分の右目に手をやって、驚いた。
 異物感が無いのだ。
「ゴミはこうして取るものなんだよ。解った? 解ったら返事してご覧、ヒトカ」
「……ハイ」
 ヒトカは微かに俯き加減になりながらも、そう答えたのだった。

 ゴミの正しい取り方が出来ない。
 一人では、出来ない。
 ミリエルだってしてくれないだろうし、自分もミリエルでは嫌だ。
 欲しいのは、愛しい人の舌と唇。
 他のものなど、要らない。
「ケセー!」
 人の言葉で、愛しい人の名を呼ぶ。届くだろうか? きっと届かない。ここは切り離された聖地なのだから。だけれども、解っていても名前を呼んでしまう。
『愛してるよ』
 そう言って頭を撫でてもらいたくなる。
 涙が溢れてとまらない。その所為で目の中のゴミは取れたようだった。
 だけれども、それは『ゴミの正しい取り方』ではない。
 わんわんと、子供のようにヒトカは泣いた。今度は涙を拭おうとはしなかった。
 ヒトカは生まれて初めて、ディオヴィカの守護から離れたところに居た。それは何という心細さであろう。
< 50 / 55 >

この作品をシェア

pagetop