涙の跡を辿りて
 それでも泣かなかったのは、やるべき事があると解っていた為だ。
 緑の眠り、青の飢え、ヒトカは赤ではなく緑か青を選ぶべきだったのだろうか?
 だが、今更何を言っても遅い。
 空しかった。
 もうかなりの時間が過ぎている事は、爪や髪の伸び具合から判断出来る。
 それでも、果たせなかった。
 指輪はこれ一つ。
 もう一度最初から、探してみるべきか?
 ヒトカはこの谷の一番端から端まで見て回ったのだ。崖を正面にして右から左。
 今度は左から右まで見て回るか?
 無意識に、ヒトカは真珠を握り締めた。
 もう殆ど止まっていた、頬を伝う涙が、ぽつん、と、真珠に落ちた。

 ダイ。
 貴方を愛しているわ。
 愛しているわ。
 愛しているわ。

 愛していたわ。

 愛して……。

 赤い髪の女が、手で顔を隠しながら泣いている。もう言葉も出ない程喉は荒れ、頬は涙の筋で腫れあがっていた。その両手は硬く硬く握り締められている。

 ミリエル!

 ヒトカは驚いた。この若く、美しい女がミリエルだというのか? あのミリエルだと?
 握り締めた手から金の光が見えた。
 ああ、ダイ・ルービックから貰った指輪はあんな色なのか、と、ヒトカは思った。自分の今もっている指輪と随分色が違う。
 金と鉛ではそれは違って当然なのだろうけれども。

 ミリエルはベッドに座っていた。そして握り締めていたものを、手を開いて見つめる。
 ミリエルは指輪を一旦嵌めて、そして枕元に置いた。
 そして、ベッドに突っ伏してまた、泣く。
 今日は、ダイの結婚式の日。
 私を愛しているといったのに。
 二人の永遠を誓ったのに。
 私を忘れて、他の女の手を取り、シンシンリーに誓いを立てた。『永遠を誓う』と。
 許さない。そう、復讐するだけの力はディオヴィカより授かっている。だが、それを果たすには代償が必要だ。
 代償に何を差し出せるというのだろう?
 自分の何かを捧げてまで復讐しなくてはいけないのだろうか?
 否、だ。
 ミリエルが何もしなくとも、彼女の心を踏み躙った代償として、ダイは何かを差し出さないといけないであろう。
 人間であるダイ・ルービックは知らない事。
 だけれども、ミリエルは知っている事。
 何かを成す為には必ず何かを差し出さなくてはならないのだ。
 考えてみて欲しい。
 子供が生まれる時、女が味わう痛みを。時に産褥の床で死ぬ事すらある事。
 それは新しい命を生み出すための代償。
 男には、最愛の妻の戦いに、何の力にもなれない、その苦しさと、妻を失うかもしれない恐怖が代償。
 では神は無償の愛を持ってはいないのか?
 否。
 無償の愛故に代償を必要とするのだ。
 人が願うままに全ての願いを叶え続ける事等、たとえ神であろうと出来る事ではない。沢山の願いは矛盾をも孕むであろうから。
 だから神は願いには代償を求める。
 だが、精霊の女王はその黄金律から唯一離れた存在である。女神の娘として代償を要求するが、代償がなくとも時に愛し児の言葉を聞いてやる。気紛れ、奔放、情熱、それらの言葉が当てはまるディオヴィカの生き方は他の神々には珍しくも面白いものであるらしい。
 話を戻そう。
 ミリエルはダイの差し出す代償は何なのだろうと考えて、また、涙した。
 心から愛した男の裏切り。しかも妻は臨月だという。自分はずっと裏切られていたのだ。
 その代償は高くつくであろう。
 そう思って、それが酷いものであるようにと祈ってしまう自分がいた。自分を傷つけた報いに自分が負った傷の十の十倍の傷をと思ってしまう自分と。
 そして。
 かつて愛した男に何の災厄も降りかかりませんようにと祈る自分と。
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