涙の跡を辿りて
 二つの心に引き裂かれそうになるミリエルがいた。
「いいわ。何もかも忘れられるよう、女王様にお願いしてみるわ。私が払えるだけの代償を払って」
 ミリエルはベッドから身体を起こした。
 窓を見やる。
 涙は止まっていた。
 毅然とした、強い女がそこにいた。
 ヒトカの知っているミリエルが。
 そして、ヒトカは知った。女王の求めた代償は指輪なのだと。そうでなければ、ミリエルは一生、ルービックを忘れられないだろうから。
 ミリエルには苛烈に思えたかもしれない。
 だが、それがディオヴィカの慈悲である事は、愛し児としてずっと傍にいたヒトカには解るのである。

 きらきらと、手の中で指輪が光った。
 金色に。
 まさか……まさか!?
 硝子玉はエメラルドのような緑に。
 ヒトカは言葉を失った。
 これがミリエルの指輪なのか!?
 鉛に硝子玉の指輪を、ミリエルはずっと金とエメラルドの指輪だと信じていたのか!?
 確かめるためには、ミリエルに会わなくてはならない。
 だが、ヒトカは少し、躊躇した。
 それはミリエルの心を壊してしまうかもしれない。
 思い出をよすがに、四十八年間もの歳月を生き抜いた巫女にトドメの一撃をさすようなものなのかもしれない。
 たった一つの恋は紛い物だったのだとミリエルに伝える役目は酷く憂鬱なものであった。
 だが、ヒトカはケセを助けなくてはならない。例えミリエルの心が血を流しても。
 ケセ。
 やっと見つけた、手がかり。
 急ぐからね。ケセの魂が凍える前に。
 ヒトカは絶壁につたう蔦を手に取り、登り始めた。もう、あの痛みと快楽は無かった。ただ、普通に刺さる棘が痛い。それだけだ。
 丈夫な蔦を探し、足を時折滑らせ、それでもヒトカは諦めなかった。
 指の爪がめくれ、血を滴らせた。その血液めがけて緑が蠢くが、それだけであった。緑はヒトカを必要以上には痛めつけない。
 漸くヒトカはその崖を登りつめた。
 そしてヒトカはミリエルの許に行く。
《ヒトカ……あんた……》
《どうしたの? ミリエル》
《血塗れじゃないか!》
 ミリエルの言葉に、ヒトカは笑った。
《こんなとこにいたら傷だらけにもなるよ》
《……その爪、痛かっただろう? 上がってきたという事は、もう気が済んだんだろう? 帰ろう。私はちゃんと女王様に……》
《待って、ミリエル、ゆっくり喋らせて。とにかく水がほしいんだ。何処だっけ?》
 ミリエルはヒトカに湧き水の在り処を教えた。老いた巫女は座ったままそれを眺める。
 ヒトカは、頬が汚れていたが表情はすっきりしていた。何だか吹っ切れたような顔だった。清々しく、好感が持てる。
 何があったのだろう? 女王様の秘密の庭園で。
 やがて、ヒトカが戻ってきた。手と顔を洗ってきたようだ。そして、何か水の滴るものを持っている。
《あんた……それ……》
 金の光も、エメラルドの色彩もない、ただの鉛と硝子の指輪なのに、それを見た瞬間のミリエルは少女のように見えた。
《渡しておくれでないかい?》
《勿論、ミリエル。僕は代償を払いきれた?》
 指輪を渡すと、ミリエルは何度も何度も頷いた。
《まさか、本当に見つかるとは思っていなかった。これを彫ったのは間違いなくダイだ。あんたには私が報酬を支払わねばならないね。まずお聞き》
 ヒトカはミリエルの正面に座り込んだ。
 どんな言葉も、絶対に聞き逃すまいという覚悟で。
《二千年前、この山が神住まりの山となる前、ここは鉱山だった。金銀宝石、莫大な富を手に入れる為、人々はどんどん穴を掘ってシンシンリーを強姦した》
《ミリエル、大昔の話に何の関係があるの?》
《黙ってお聞き。神はまず、夢を見せた。この山から離れよと。欲に目が眩んだ者の大半はこの山に残ったけれどもね。そして神の裁きによって彼らは死に絶えた。だけれども、ヒトカ、彼らが彫った坑道は未だ存在する。そしてそこに女王様の求めるものがある》
 ごくり、と、ヒトカは唾を嚥下した。
《『晶花(しょうか)』、それが女王様の求めるものさ》
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