涙の跡を辿りて
「先生のお話には、必ず目を通すようにしておりますけれども、この絵本は少し趣向が違いますわね」
 令嬢・フランセルは本を抱き締めながらうっとりと目を閉じた。
 彼女の手にはロトが装丁してくれた絵本。
 雪が解け始め、小川が雪解け水の流れに歌う頃、その絵本は出来あがった。ケセはルービック家に向かう事に嫌悪感を覚えながらも、フランセルの為だと、これは仕事なのだと割り切って村長の邸宅に入っていった。
 そして今、その令嬢の部屋で、二人きりで会話をしている。
 フランセルは火のように激しく、水のように掴み所がなく、風のように悪戯気だと思ったら大地のように確固たる信念を持っていた。
 最初、絵本の主人公たる姫君はフランセルがモデルになっていた。
 だが、ヒトカと出会い、少し物語が優しくなった気がする。最初予定していたよりは。
「フランセル嬢、そのお話、お気に召しませんでしたか?」
 恐る恐る、ケセはフランセルに問う。
 金色の巻き毛を揺らし令嬢は慌てて首を左右に振る。
「今までのお話で一番好きですわ。先生は恋をなさっていらっしゃるのではなくて?」
「恋!?」
 思わず、ケセは大きな声を出してしまった。
 フランセルはくすくすと笑っている。
「だって、今までの童話や絵本にはないのですもの。言い寄られる男というものは。でも、リアリティがありますわ。きっと先生の事を好きになった方々を見て書かれたのでしょうけれども、相思相愛の物語では、何だか今までと……違ったのですわ」
 痛いところを衝かれ、ケセは大急ぎで口元に笑みを刷いた。
「今回のお話は、違ったと?」
「ええ」
 フランセルが即答する。
「騎士も姫君もお互いを想いあっているという事が伝わってきます。それも、口に出せないからより一層良いのですわ。騎士も姫君も、ただの一言も好きだの愛しているだのといった言葉を使ってはいないのに、伝わってくる情熱がありますわ」
「……それは……」
 ケセは口ごもる。何故だろう?  恋? この僕が?
「精霊を物語に織り込む事が多い先生。もしや、恋したお方も人ではないのでは?」
 フランセルが言った。口元は笑っているが、その目は貪欲に真実を求める輝きがあった。
「先生は精霊に恋をしていらっしゃるよう。秘密の話を聞いたよう」
 歌うようなフランセルの言葉に、ケセはヒトカを思った。ヒトカ? あれは同居人だ。ケセを決して辱めない精霊だ。だが、胸の動悸は静まる事を知らない。
 顔が熱く火照る。
「もしかして、先生は、ご自分の恋に気付いていらっしゃらなかったの?」
 自分とヒトカは恋などしていない。
 精霊と人間の、全く違う種族の生き物と、どうして恋に落ちる事が叶おうか?
「フランセル嬢、私は恋など……」
「恋など?」
 していないとは、言えなかった。
 どうしても、言えなかった。
「先生、わたくし、この夏に結婚致しますの」
 唐突な令嬢の言葉に、ケセは瞠目した。
 結婚? こんな年端も行かない娘が?
「聞いて下さる? 父が目をかけていたこの村の村長に、私が預けられた真実の理由」
 表向きは、転地療養。だが。
「わたくし、恋をしましたの」
 フランセルは菫の瞳を伏せた。
「わたくしの家より余程裕福な、商人の息子でしたわ。わたくし達、お互いに夢中になりましたの。でも、わたくしには婚約者が」
 フランセルのか細い肩が、震えていた。
「わたくしの家は名門といえど、お金がないのですわ。ですから、わたくしは身売りさせられるのです。同じ位の家格の。そして裕福な貴族の長男に。家の名前がなんなのでしょうね? わたくしの家より家格の低い家柄の人間は、わたくしの両親にとって人間ではありえないのですわ。わたくし、好きになった人に駆け落ちをせがんだのです。ですが、その夜、待ち合わせ場所に現れたのはわたくしの父でした。初めてぶたれましたわ。そしてわたくしが華燭の典を挙げるまで、この村に預けられる事になったのです」
「……フランセル嬢……」
 かけるべき言葉を持たないケセに、フランセルは笑った。艶やかに。
「わたくしは恋に破れました。ですが、先生、先生はどんな事をしても恋をまっとうなさって下さい。そして素敵な物語を沢山書いて。わたくしが己の子に読み聞かせられるよう。幸せとはこのようなものであると」
 フランセルは笑顔だった。菫の瞳は潤んでいたが、涙は零れ落ちる事がなく。
 ケセはフランセルを美しいと思った。
「フランセル嬢。お子様が出来たらお教え下さい。絵本を届けましょう。貴方の好きなコンテで描いた絵本を」
「有難う……」
「では、失礼します」
 ケセは立ち上がると、本を渡した時に渡された紫の絹地の袋を手にした。絵本の代金である。それを持ち、部屋の外に出て扉を閉めた。その音にかき消されはしたが、ケセにはフランセルの涙が見えるようだった。
 涙は嫌いだ。あまりに美しく、心を縛ってしまうから。
 もうケセはフランセルを忘れる事など出来はしないだろう。自分の前では毅然と背筋を伸ばし、前を見つめていた少女。十四の幼さとは思えない。彼女は運命を甘受しようとしている。それはケセには出来ない事。
 ルービック邸の玄関にある靴箱の上に、ケセはフランセルからもらった報酬である金子の三分の一を起き、下男に帰る事を伝えた。
 下男は曖昧に頷くだけだった。
 ケセは邸を出るとぼんやりとクーセル村を歩いた。
 誰もが、ケセを異邦人のような目で見る。
 七歳の頃から十六歳までこの村に滞在していたというのに、ケセは結局ここの村人になる事が出来なかった。
 この村の誰も、ケセを愛してはくれなかった。そう思うと自嘲めいた笑いがケセの口元に浮かぶ。
 だが。
 今の僕には家がある。
 それは雨や風を防ぐ為の家という意味ではなく、ケセが幼い頃から憧れていた温もりのある家だった。
 ケセは走り出したい気分になった。
 ヒトカが待っている家に向かい。
< 8 / 55 >

この作品をシェア

pagetop