涙の跡を辿りて
 ケセは、画材を机に叩きつけると苛々と部屋を歩き回った。
 ヒトカは怖いと思う。クーセル村に行った日からだ。ケセは荒れている。人の心に敏感な精霊であるヒトカには痛い位、ケセの苛立ちが伝わってくる。肌がぴりぴりする。ケセは一体、どうしたというのであろう?
「くそ! 畜生!!」
 ケセは喚きながら二階を歩き回る。ヒトカはパッチワークの手を止めてケセを見ていたが、怖くてもケセから離れられなかった。
 目を離すと何をするか解らない。そんな怖さがあった。
 ケセは絨毯が擦り減りそうな勢いで歩く。そしてまた作品に戻るのだ。
 もう、一週間ずっとこんな調子だった。ヒトカのパッチワークは殆ど終わっていた。赤と黄色の鮮やかなベッドカバー。
 ケセは獣の様に呻くと、頭をかきむしった。

 書けない。

 こんな事は初めてだった。
 『恋』。
 その言葉がケセの頭を占めるのだ。物語の構想など、浮かぶ余裕も無い程に。
 恋などした事が無かった。
 憧れた事が無かったとはいわない。
 だけれども、今までケセは自分が描く恋物語でその欲求を消化していた。
 笑うルービックを思い出す。
 彼の肩越しに見える天井を見つめながら、いつ終わるのだろうかと思った事。
 物語の恋の成就は接吻で済むが、現実は。
 そこまで考える程に、ケセはヒトカにのめりこんでいるという事実に気付かなかった。
 何故なら、ケセの頭は物語用に出来ていたからだ。
 曰く、恋に落ちるにはすべからく理由が要る。
 王子様もお姫様も魔法使いも騎士も乙女も、何か困難を克服して恋を手に入れる。
 理由無く突然、恋に落ちることなどケセの頭では考え付きもしなかった。
 不意の出来事に弱いケセの頭、否、心。
 ケセはついに考える事を放棄した。再び椅子に座り、ほぼ出来上がっている物語を広げる。
 今、請け負っている作品は四本。総て童話である。そのうちの三本までは推敲、校正の段階にまで来ているので問題ない。だが一本は白紙に限りなく近かった。
 締め切り迄に書き上げるのも原稿料のうちだと、アイゼックは言っていた。
 なのに、何の言葉も浮かばない。
 そんなケセに、ヒトカはそっと近づいた。
「ヘセ、コレ、ヘセの」
 ばさりとヒトカはパッチワークを広げた。それはベッドカバーだ。ついさっき、最後の一針が刺されたばかりの。
 だが。
「だからなんだって言うんだ!? 仕事の邪魔をしないでくれ!」
 ケセはばさりとそのベッドカバーを払いのけた。床の上に広がる鮮やかな色彩。
 その布の向こうに、ヒトカの今にも泣き出しそうな顔。
 ヒトカはヒトカなりに考えたのだ。ケセが仕事に行き詰っている事しかヒトカには解らなかったが、少しでも気を逸らせるようにと。
 だが、それはお節介でしかなかったらしい。
 ヒトカは跪くと、床の上に落ちたベッドカバーを引き寄せるように腕に抱いた。
「ゴメン」
 ヒトカの言葉に、ケセは立ち上がった。
 ヒトカが何をしたというのだろう?
 今にも泣き出しそうなくせに、唇に笑みを刷いた、美しい精霊。
「ヒトカ」
 ケセが何か言い出そうとするのを、ヒトカは首を振って制した。
 ケセは言葉をなくす。言葉を扱う仕事をしているのに何故、こんな時には上手い言葉の一つも浮かばない?
 俯いたまま、ヒトカは立ち上がるとパッチワークを抱いたまま、階段に向かって走り出した。
「ヒトカ!」
 ケセが呼ぶも、ヒトカは立ち止まる事をしない。ぱたぱたと階段を下りる足音に続き、寝室の扉の閉まった音がした。
 ケセは暫く動けなかった。
 さっきまで此処にいた。
 ヒトカ。
 その気配が常にある事に慣れていた。
 視線が床に落ちる。
 床の上には、濡れた跡があった。
 涙の……跡?
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