ロング・ディスタンス
「過去って言うけど、君はいつの時もその時その時で、君なりに一生懸命生きてきたんだろう? 辛い思いもいっぱいしてきたんだろう?」
「うん」
「だったら俺はそれを責めたりはしないよ。君の苦しみに追い打ちをかけるようなことはしない」
「ありがとう。それを聞いて安心した」
 栞は夫の穏やかな目を見た。
 本当は彼にだって思うところはあるのだろうけど、それはあえて言わない優しさ。いつものことだけど、彼女は彼の優しさに甘えることにした。
「俺だって研修医だった頃は、君に受け入れてもらえるなんて思わなかったよ。細谷に紹介してもらった時だって、君と付き合えればラッキーぐらいの気持ちでいたんだから。何しろ君は目に見えないバリアを張っていたからね」
「あの時の私は明らかに変だったのよ」
 太一は妻の直接的な表現にクスリと笑った。
「考えてみれば不思議なことだよな。誰か好きな人がいて、その人が自分のことも好きになるなんてさ。それってすごい偶然だよね。世の中のカップルとか夫婦やってる人たち皆にそういうミラクルが起こっているのかな」
「どうかしらね。少なくとも私たちに奇跡が起こったことは確かだわ」
 片思いが両思いになる瞬間にはどんな魔法が効いているのだろうか。

「ねえ、栞ちゃん。俺たちの共同生活はまだ始まったばかりで、そいつはこれから先何十年も続くわけだ。年を取って死ぬ間際に、それまでの結婚生活がどうだったかって振り返るだろう。その時に俺たちはいい夫婦だったって思えるように、お互いに支え合って暮らしていければいいなって俺は思うんだ」
「そうだね。私もそう思う」
 栞が夫の胸にもたれる。
「太一さん。私、これからもずっとあなたのそばにいるわ」
「うん。俺も君のそばにいるよ」

 
 それから太一は妻を軽々と抱き上げ、ブランケットにくるんだまま寝室に連れていく。
 今宵は長くなりそうだ。
< 277 / 283 >

この作品をシェア

pagetop