ジャンクブック
ピアノ


■ピアノ


彼女の腕が暗闇の中で動く。乱れて、崩れてい く楽譜。室内は真っ暗で、物影一つ見えない。 窓からこぼれ落ちる月光に照らされた、彼女の 背中と古びたピアノだけが、朧気に浮かび上が っている。幻想的で、何処か空虚な。

弾いているのは何の曲だったか。ブラームスか 、リヒノフスキーか。男は覚えていなかった─ ─女の顔も、声も、己が誰なのかも。ただ彼女 の指から奏でられる音差しは男の胸を締め付け る。

このような悲しい音は、彼女には似合わないと 言うのに。

彼女の背中にそっと覆い被さって、彼女の手に 自分の掌をそっと重ね合わせる。もう、良いん だよ。男は穏やかに言葉を落とした。夜風がカ ーテンを揺らす。冷たくて、心地良い風が。

女はふと手を止めて後ろを振り向く。いつの間 にか床に落ちていた一輪のデュランタに、光が 降り注いでいる。

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