ジャンクブック
なんでもない話


■ただ彼が死んだというだけのはなし


光が降ってくる。
何処かから聞こえてくる透明な旋律。穏やかに微笑むマリア像。祈りを捧げる聖職者は、この教会を見捨ててしまった。埃を被った十字架が、今は使われていない木製の椅子の上に鎮座している。荒れ果てた聖堂は、時間を忘れたように動かない。
男は眠っていた。床の上で、静かに目を閉じていた。その目が開くことは二度と無いのだと、男の傍らに立つ少女は、何となく知っていた。

「おじさん、どうだった?幸せだった?」

男は問い掛けには答えない。応えられなくて、当然だった。もし生きていたとしても、彼は閉口するに違いなかったのだから。少女の夢を壊したくなかったせいか、はたまた彼自身が答えを知らなかったせいなのか。今では知ることも出来ない。ただ唯一分かることといえば、男の死に顔が、とても安らかであるということだ。

「咲かないと言っていたお花は咲いたよ。空はきれいで、傷の癒えた鳥さんがとんでる。となりまちの頑固者のおばあさんがりんごを子供に与えたんだって。黒い肌の少年は、元気に暮らしているそうよ。おじさんが守ってくれた未来は、どうやらめんどうなことになってくれそうで、正直こっちは困ってるんだけど」

少女の足下にはあるはずの影がない。ないはずの黒い翼をはためかせると、少女は真っ黒い瞳を細めて笑った。

「みんなしあわせそうでさ、胸糞わるい。気持ち悪い。おじさんだって、なんなのその顔。なんなのさ、あんたは誰からも感謝されてないのにさ、寧ろ恨まれてんのにさ、なんでそんなに」

この男は村の“素晴らしい村長”を殺した。殺したから恨まれた。恨まれたから呪われた。呪われたから少女が呼ばれた。少女は詳しいことを知らない。ただ男は殺される前にやりたいことがある、と言った。みんなに罪滅ぼしがしたいのだと言った。少女は男と一週間だけ、ともに過ごした。村長殺害の原因は詮索しなかった。悪魔に情はいらないからだ。


君はきっと天使だよ。と最後の日に男は笑った。
「今更なんなの?死ぬのがこわくなった?それとも自分の死を美化しようと?」
ちがうよ、と彼は唇をひん曲げると、少女の頭に手をのせた。純粋な瞳が、少女の顔を映し出す。
「翼をもって、死を迎えに来てくれるんだ。行き場のない魂を連れて行ってくれる。それってまるで、天使じゃないか」
なんとなく恥ずかしくって、少女は目を逸らした。
「でも天使と違って、光の中を飛ぶことはできない」
「なにより、キミは愛らしい」
「はあ!?ちょ、だまりなさいよっ」
照れてしまって、少女は怒鳴る。ぽかぽかとするような、男の快活な笑い声が耳に残響した。あはは、やっぱり、かわいいなあ──。

唇を噛み締める。少女は男を見下ろして、その暖かな掌を思い出した。思い出してしまった。大粒の涙が目から溢れ出す。頬を伝って、地面に落ちる。

眩しい世界をもう一度愛してみたいと、誰かが優しく笑ったのだ。
ただ静かに眠る男。何処かから聞こえてくる透明な旋律。帰らない主人を待つ十字架。 微笑むばかりのマリア様。
光が、空から降ってくる。


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