ジャンクブック
ピーターパンは飛べない


夜空を見ていると何処までも行けそうな気がしてくる。体が軽くなって、涼しい風が肺を満たして。
誰も見ていない、誰もいない夜の世界。都会だから星はない。けれど代わりに煌めく街の明かりは、無機質でひどく美しい。

ビルの屋上の落下防止フェンスの外側に座るわたしと、後ろに立つ彼女。今日ここに来たのは、他でもない、決別を願ったから。

「ピーターパンのモデルになった人々って悲惨な死を遂げたのよ。知ってた?」

彼女の声が、楽しげに何度も跳ねる。実際に、彼女は背後でるんるんと飛び跳ねて踊っていたのかもしれない。

「ひとりは溺死、ひとりは戦死、ひとりは投身自殺。5人兄弟のうち3人死亡。ほらね!」
不謹慎な、とは言わない。カワイソウな彼女は人の心が分からない。

「確率論よ。大袈裟に取り立てる程でもない」
「両親は若過ぎる死。ね、どう?」
「何が言いたいの」

休止符。

「あなたが言ったから」彼女は言った。「あなたが」
「何を」

掌を握る。唇を噛んで、俯く。地上が遠い。そこに小さなわたしが見える。何かを叫んでいる。泣きそうな顔で喚いている。否、幻覚だ。

「ピーターパンみたいねって、言ったから」

彼女が隣に音もなく立った。息が詰まる。冷たい空気も夜の街も排他的で、よそよそしくって、こわくなった。

「魔法の粉はない」
「あら。あなたには見えないの。信じて手を叩けば妖精は甦るのよ」
「でも、だって」

戸惑うわたしに、彼女は笑う。

「ほら立って。ウェンディ。ネバーランドへ行こう!」

きらきらと星が散った。甘い香りがして、視界を何かがふわりと横切る。幻覚だ、幻覚だ。言い聞かせるように頭をかきむしる。

「わたしはウェンディじゃない」
「ティンクをご所望?」
「そうじゃない!そうじゃない。だって、あなたは」

───ピーターパンじゃない

とは言えなかった。だってわたしにとっての彼女は、夢の世界を開いてくれるヒーローだったから。

わたしは立ち上がる。
雨粒がぽつりと頬を濡らす。一滴、二滴。雨が妖精の羽を濡らすかもしれない。妖精の粉の魔法を解いてしまうかもしれない。

「さあ、ウェンディ。目をつむって」

彼女の声が遠くに聞こえる。わたしは目を閉じる。暗闇で彼女の気配だけを感じる。

「飛ぼう。一緒に」

降ってくる。降ってくる。何度も何度も。頬を濡らす。

ドサッ。

忽然と気配が消えた。暗闇に一人、取り残される。甘い香りが鼻腔を擽った。彼女は嘘を吐かなかった。信じたら飛べたのかもしれなかった。それでも。

「ごめんね」

わたしは目を開ける。地上を見下げる。何もない。誰もいない。彼女の姿は屋上のどこにもない。冷たい沈黙がこの世界を満たしている。

「私は大人になりたいのよ」

何度も何度も降ってくる。誰かの体が降ってくる。電車の中でだって、授業中だって、誰かと喋っているときだって、見慣れた体が降ってくる。降ってきた体はひしゃげていて、頭から鼻から耳から、血がたくさん流れている。歯磨きしているときの鏡の向こう側に、眠っているときの部屋の中に。

何度も何度も。「 」が降ってくる。



■ピーターパンは飛べない


教室の窓の外を見る。ザーザーと音がする。ガラスを伝う幾筋もの水滴を目で辿る。感傷的、嗚呼、そうなのかもしれない。

「ねえ、どうしたの」

後ろから声をかけられる。私は振り向くことをしない。ただ前を見据えている。ぎしりと床が鳴き喚く。

「いや、今日はよく降るな、と思って」
「最近ずっとよね」

音が聞こえた。ドサッ。透明な彼女が笑う。
劣情に飲み込まれそうになる。心臓が痛い。よく通る笑い声。聞きたくなくって、なんとなく、汚い私は手を叩いた。

「どうしたの、突然」

驚いて、丸い目で問うてくる彼女。なんでもない、と誤魔化せば、気まずい沈黙が降りてきた。
汚い感情が喉から剥がれ落ちてしまいそうになる。この気持ちが伝わってしまったら、あなたはどうするのだろうか。

「あ。もしかしてそれってあれでしょう」

彼女が吐き出した。

「あなたはピーターパンみたいだものね」

そして、誰かが落ちていった。
ドサッ。


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