りんどう珈琲

「マスター、これ誰?」

「んっ? 」

「これ、今歌ってる人」

「シャーデー。目を閉じて聴いてごらん。声が変わる。なぜだかこの人には喜びも悲しみも音楽に変える力があるみたいだ。世界にはときどきそういう歌を歌える人がいる」

「目を閉じたら仕事ができないよ」

「仕事もなにも、お客さんがいないんだからやることないだろ。こんな時は音楽を聴いたり本を読んだりしていたらいいんだ。宿題があるならやればいい」

「宿題なんてないよ。もう高校生だよ」


 今日もわたしの放課後は過ぎていく。不思議な心地よさで。学校で友達と他愛もない話をするのは楽しいし、家でのんびりするのも好きだ。でもそれとは全く別の意味で、ここでは自分がありのままでいいと思えるような安心感がある。うまく言えないんだけど、この場所からわたしの知らない世界が広がっているのを見るような居心地のよさ。たぶんそれは、マスターみたいな人が今までわたしのまわりにいなかったからだと思う。


 どうしてマスターといるときだけそんな気持ちになるのか、いつも考える。でもわたしはここで半年過ごしたけれど、今だにわからない。マスターは静かな人だと思う。でも、ほんとうのマスターはもっと奥の方にいるように思えることがある。きっと17歳のわたしではまだその奥の方まで行けないんだと思う。それでもマスターの話す言葉や、表情、佇まいの奥にある、その隠された空気がいつもこの店を覆っているのはわかる。もちろんこの店が暗く陰湿な感じがするとか、そういうことではなく、むしろ大きな窓ガラスから入る太陽の光の明るさの分だけ、それが見える、そんな感じだった。私は毎日ここ以外の場所からここに来るからそれがわかる。もちろん最初はそれがなんなのか、わたしにもわからなかった。もっとわたしが大人になったらそれが今よりわかるのか? それもわからない。お客さんにもその正体は多分わからないだろうと思う。その正体どころか、わからない人にはその存在にさえ気づかないし、興味のない人にはそもそもまったく意味のないものなのだろう。きっと世界とはそういうものだと思う。でもわたしはそれの名前を知りたくて探している。

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