恋するマジックアワー(仮)
「沙原くん、ちょっとこっち来てくれる?」
別のフロアから顔を出したスタッフさんに片手をあげて応える。
「んじゃ、海ちゃんゆっくりしてって。 もちろんミシマくんも」
洸さんはもう一度あたしたちに向き合うと口角を上げて微笑んだ。
そして、去り際に1枚の紙を三嶋くんに差し出す。
ーーーそれから。
すれ違うその瞬間、そっとあたしに耳打ちする。
甘いムスクの香りと油絵の香りが鼻腔をかすめた。
「……隙、見せるなよ」
「っ……」
うんと低く響く声。
吐息の中でかすかに聞こえたその声に、耳たぶからジリジリと熱を持つ。
隙?
隙ってどういう……。
洸さんこの間から変だよ。
キュっと唇をかみしめて、さっさと行ってしまったその背中の残像を追う。
「信じらんねぇ……今、沙原って呼ばれてた……?」
「へ……」
や、やばい。
三嶋くんいるのに、完全に思考は洸さんに持ってかれてた。
呆然としている三嶋くん。
その手には、さっき洸さんから渡された紙が握りしめられている。
見ると、それは個展のパンフレット。
……は!
もしかして、先生ってバレたんじゃ……。
なんてひやひやしていると。
「あの人、沙原愛の弟じゃね?」
「え」
愛さんに弟がいるってことも知ってたの?
キョトンとしているあたしに、三嶋くんは興奮したように言った。
「たしか高校生の時、絵画のコンクールで入賞してるんだよ」
「え、高校生の時?」
初めて聞く話だ。
「当時高校生の天才画家って言われてたけど、それ以降の詳細は誰も知らなかったんだよな」
天才画家……。
思い知った。
あたしは、洸さんのこと、何も知らないんだなって。
洸さんも、そんな話一言も言わなかった。
つまりはそういうことなんだろう。
わかってはいたけど、やっぱりあたしの存在はそれっぽっちなんだって、思い知らされた気がした。