みどり姫

◆◆◆
 はぁはぁと、マーレイは息をついた。
 走った所為か、すこぅし、胸が苦しい。他国の姫君のように、コルセットを着ける風習がなくて、本当に良かった。もし、そんなものを着けていたのならば、きっと気を失ってしまったに違いない。
 逃げ出してしまった。
 紳士達も、淑女達も、侍女も、給仕も、とにかくあそこにいた皆は、マーレイがご不浄に行くのだと信じて疑わなかったようだ。
 逃げ出してしまった……。
 だって、あの方達は、わたくしを、見世物のように、見る。
 マーレイは昨年初めて見たサーカスを思い出していた。あそこにいる珍獣を見る目と自分を見る目は、酷似している気がする。
 そう、彼女の事を取り囲んだ紳士淑女達は、大人も子供も、口々に彼女を誉めそやし、感嘆の溜息をついたのだけれども、そしてそれは、マーレイにとっては最も慣れた状況の一つだったのだけれども。
 それなのに、何故わたくしは怖かったのかしら?
 あの視線……あれが嫌だ。
 賛美以外の何かが含まれた視線。
 マーレイをして己を珍獣のように思わせた、視線。
 その視線は痛くはなかったがもっと気持ちの悪いものであった。
 とりあえず、深く息を吸い込む。呼吸を整えなくては。
 思いっきり伸びをしても「はしたない」などと言う者は居ない。
 騎士達や兵士達は天宮と、その中の舞姫の間に殆どの人数が割かれている為、マーレイが逃げてきた庭園は警備が手薄だ。
 ちなみに彼らは帯剣していない。招かれた客を信じる意味で鉄を帯びる事はないのだ。もしもの時は体術を駆使し、いざとなれば肉の壁となり客を守るのがシャンタル祭での彼らの役目。
 勿論、不審な者が碧翠宮に立ち入る事のないよう、外の警備は非常に厳戒である。騎士達兵士達が剣を帯びていることは言うまでもない。
 庭園に配された岩の裏に隠れて、マーレイは溜息をついた。
 会場を離れていられるのは、一瞬の間だけだ。大体、それ以上離れている事はマーレイのプライドが許さない。それでは余りに無様だ。
 マーレイは確かに逃げ出した。だが、それは戦う力……あの視線と戦う力を蓄える為。
 それに、現実の問題もあった。
 それは十歳の少女たるマーレイにも、しっかり叩き込まれた問題。
 シャンタル祭に出席している国々は、その間、いかな理由があろうとも無条件に停戦状態となる。そして、シャンタル祭では、互いに危害を加える事は決して許されない。故に、男達はいかなる鉄を帯びる事も許されず、女達の飾りピンでさえ、細心の注意が払われる。
 そんな最中、まさか開催国たるダラ・スーチェアの王女が行方不明になったのであれば……。
 きっ、と十歳の少女は唇を咬んだ。
「後、三百秒」
 それ位ならば、ぎりぎりで許されるだろう───にっこり微笑んで席を外した姫君が、用を足して戻ってくる時間として黙認される筈。
「アナシア……」
 彼女がいてくれれば良いのに。そう思うが口に出して言えない。
 アナシアの母、エアルは、もう、意識がない。
 まだ、生きているのだろうか? 明日は、生きているのだろうか?
 サディンが、涙を堪えている。サディンは弟妹の中でも、エアルの事を一番愛していたのに。それなのに、側に居る事は出来ない。
 サディンは王様で、今は祭の最中だからだ。
 お可哀想な父様。そしてアナ……。
「後二百二十……」
 庭園からパーティー会場たる舞姫の間は、ここからそう遠くない。
 アナがいてくれたなら、きっとわたくしを守ってくれたでしょうに……。
 もう一度、息を吸った。
 緑の匂いを肺に詰め込み、吐き出す。
 もう、行かなければ。まさか逃げ出してきた時同様───と、いっても人目のある内はしずしずと歩いていたが───走って行く訳にはいかない。息を切らせて、このマーレイ・ヴェルクラムが息を切らせて、飛び込んでいく訳にいくものか!
 憂鬱ながら、マーレイは歩き始めた。スカートの裾を持ち上げ、土くれやら草や汁などがついていないか確認する。
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