みどり姫
 何故庭園などに逃げ出してきたのだろう。
 それは草木や大地の匂いが、心地良いから。力になるから。
 警備の薄い所なら他にもあるけれども、マーレイは作りものでも良いから自然に触れたかった。
 だけれども、ひどくみっともない格好になるやも知れぬのに、何て馬鹿な事を……とも思う。
 スカートは幸いな事に汚れてはいなかった。
 マーレイは安堵の溜息をついた後、微笑んでみせる。今から笑顔を練習しておかなければ、きっと笑えないであろうと思って。
 唇の端を持ち上げ、余り嘘っぽくならないように、何か楽しい事を考えようとする。
 そうして、回廊の端にたどり着いた丁度その時、だった。
 大理石でできた女性の裸体像の陰。
 真っ青な瞳。
 秋の空の青。
「貴方は、どなた?」
 思わず、マーレイが問うた。
 その青い瞳の持ち主は、決して綺麗ではなかったのだけれども。
「あっ……あ…あの!」
 青い瞳がきょろきょろと辺りを見回す。どうしていいか困った、といった風に。
 その子は、言ってみれば醜かったかもしれない。
 マーレイと背丈は変わらないのに、その顔はまるで腫れた様に膨らんでいて、頬は紅を差したかのように赤かった。濃紺の上着は確かに愛らしいのに、ボタンがはじけそうになっているし、そこから覗く手は赤子の様にふにふにしていて、指の短さ太さが何と際立つことか。そして、逞しいという形容には程遠い太く短い足。
 つまりその子は、くるくるの金髪巻き毛の、肥満児だった。王族貴族の、そして裕福な家庭の子女の中には、たまに見られる。マーレイはそんな子供達を醜いと軽蔑していたのだが。
 何故だろう、この青い瞳の少年を軽蔑する事は出来なかった。
「怖がらないで。青い瞳の方。わたくしは魔女ではありませんわ」
「きっきっきっきみのこ、事を、魔女だなんて…!」
 少年は耳まで赤くなった。
 興奮して叫ぶ声は吃ってはいるが、だが、とてもいい声だった。耳を打つ声に、マーレイはそう思う。
 そう、この青い目の少年は、耐えられない様な醜さではない。
 例えば、その瞳。マーレイの関心を引き、思わず声をかけさせたそれは、何と澄んでいる事だろう。美しいもの。優しい青。
「きっきっ君は魔女なんかじゃあ、ない。ぼっぼっぼ僕はヴィッシュ! サナディアのヴィッシュ!!」
「まぁ、サナディアの王子様でしたのね。ご機嫌麗しゅう。どうして、このような場所にいらっしゃいますの? もしや、迷子になられて? 申し遅れました。わたくしはダラ・スーチェアのマーレイですわ」
「ひっ姫……ちっ違う…ぼ、僕は、僕は、迷子じゃない」
 逃げ出してきたのだと、ヴィッシュは言った。皆が、とても怖い目で見るのだと。自分が醜く太っている所為で……と。
「まぁ……」
 では、自分と同じなのだ、と、マーレイは思う。
 同じ様に、逃げ出してきた者なのだ、彼は。
 何だか胸に親近感が沸いた。
 優しくしたいと思った。
「でも、貴方は醜くなどないと、わたくし、思いますわ。だって、貴方はとても素敵な目をしてらっしゃるもの。わたくしの父も兄も、青い目をしていますけれど、貴方の瞳とは、全然雰囲気が違いますわ。とても」
 そう言いながら、マーレイはヴィッシュの頬に手を伸ばす。無意識に。
 そうして、その目を覗き込む。みどりの瞳を煌めかせ、少女は笑んだ。
 甘く甘く、柔らかく、優しく。
 そして。
「……綺麗……」
 真実の心から、マーレイは呟いた。
「あっ……」
 ヴィッシュは呻いた。
 胸が、切り取られたようだった。熱く燃える短剣で、声をあげる間もない程の一瞬に。
 その言葉……綺麗。
 物心ついて以来、初めて、ヴィッシュは人に誉められた。
 サナディア国王が唯一愛した王妃の命と引き替えに生まれてきた自分である。父には省みられる事なく、それ故、たった一人の王子、世継ぎの君であるというのに家臣にも軽んじられてきたヴィッシュである。
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