ようこそ森の診療所へ
「今日は満月夜か」
 姉上は空を見上げてひとりごちた。満月? 見回すがぼくには見つけられない。すると、姉上は一方を指し示した。
「そこに満月が映っているだろう」
 本当だ。川のある一点にまるく輝いている部分があった。
「命の大河に地上の満月が映るときがある」
 そういえば、この世界の空には太陽も月も見当たらない。あれは地上の月なんだ。
「そこは淀みと呼ばれる場所だ。通常命の大河に飛び込むと流れにあがらえず流されてしまう。しかし淀みならば流されずに抜けることができるのだ」
「地上に戻れるの?」
 姉上はこくりと頷いた。
「淀みはうつろう。地上で夜が明けるころには消えてしまう。あの場所にあるのはあと数時間といったところだろう」
 ぼくはごくりとのどをならした。地上に戻れる。興味がないわけではない。だけどぼくは戻りたいとは思わなかった。複雑な思いを巡らせているぼくを見て、姉上は突然低い声で言った。
「この世界にはルールがある。安らかに暮らすためのルールだ。これまでの罪は問わないが、これから罪を犯したらそれなりの罰を受けてもらう」
 姉上が少し怖い顔をしていたのでぼくは身をすくませた。
「ルールは単純だ。ひとつしかない。わしの許可なく地上に行ってはならない。もちろん、天界にもだ」
 姉上は怖い顔でしばらくぼくを見ていたが、ぱっと表情を笑顔に戻す。
「それさえ守ればよい」
 ぼくはほっとした。それならぼくにも守れそうな気がした。
「せっかく拾った命だ。大切にしろ」
 姉上は柔らかな微笑みと共に頭を撫でてくれた。ぼくは頷いた。姉上はぼくを大切に思ってくれている、その思いに応えたいと強く感じた。
「お前は黒い翼にしては素直でいい子だのう」
 姉上は感心したように呟くと、くるりと背を向ける。腰に手を当てて満月を見上げた。
「わしはこれから仕事があるのだが…共に来るか?」
 うん、行きたい、と言った。姉上と一緒に居たいから当然の答えだった。
「少し危険だが、大丈夫か」
 ぼくはこくりと頷いた。ひとりぼっちの不安より怖いものなんてない。
「ならば、行こう」
 姉上はぼくの手を掴むと、空に身を投じた。灰色の翼が大きく開きふわりと上昇した。
 悲鳴をあげながらしがみつくぼくに、姉上はアハハと大きく笑う。
「お前も飛べるのだぞ。羽を広げてみろ」
 ぼくは背中に全神経を集中させた。ふわり、ふわりと重力に抵抗している感覚が訪れた。
「飛べてる! ぼく飛べてる!」
 よたよたと頼りないが、ぼくは自分の体重を支えられて歓喜した。
「すぐに上手く飛べるようになる」
 姉上はくすりと笑うと、ぼくの手を引いて急上昇した。視線の先には、あの淀みがあった。ぼくは行き先を理解した。
「地上に行くの?!」
「ああ、目を閉じて、口も閉じていろ。絶対に手を離すなよ」
 どんどん加速する姉上から振り落とされないようしがみついた。ぎゅっと目と口を閉じる。
「一気に抜けるぞ!」
 姉上の威勢良い宣言を合図に、ぼくらは光の川に飛び込んだ。
 目の前がまばゆい。目を閉じていてもわかった。暖かかったり冷たかったり、不思議な感覚だった。ふわぁと一瞬意識をなくしそうになったが、強く握られた手で我に返る。危ない、きっと眠ると危ないと思った。
 急に世界が暗くなった。肌寒い感覚に襲われる。ぼくはゆっくりと目を開いた。
 眼下には真っ暗な森、遠目にぽつぽつと灯る明かり、空を仰ぐとまんまるの月が見えた。
 懐かしい。ぼくが見慣れた世界だった。
「こんなところに出たか」
 姉上は情報を得ようとまわりをきょろきょろしていた。
「帰り道を覚えておかんとな。見ろ」
 姉上に指差された先を見る。木々の間からほんのり発光する泉のようなものが見えた。
「あれに月光が当たっている間に戻らねばならん。急ぐぞ」
 再び姉上はぼくの手を引いて高速飛行を始めた。
「ここはどの辺りなの?」
「フィフスシティのはずれかのう」
「これからどこへ行くの?」
「フォースシティの市境の村だ」
「そこになにがあるの?」
「行けばわかる」
 ぼくは飛行中、いろんな疑問をぶつけてみた。風の音にかき消されないよう、怒鳴るような大声で。
「帰り道がなくなったらどうなるの?」
「次の満月まで地上をさまようことになる」
「満月の映ってない川に飛び込んだらどうなるの」
「おそらく、岸まで流される」
「岸まで流されたらどうなるの」
「…白い翼に見つかって処分される」
 ひやりとした。処分って、殺されるってことだよね。まだ見ぬ白い翼の恐ろしい姿を想像して身震いした。
 わからないことだらけだ。ぼくはどきどきした。何でも的確に答えてくれる姉上を尊敬した。ぼくは本当にラッキーだ、姉上に拾ってもらえて。こんなわけのわからない世界にひとりでほうりだされたら、とっくにぼくのちっぽけな魂は消滅していただろう。
 明かりがぽつぽつ灯る小さな集落の上で姉上は停止した。
「降りるぞ」
 一言言うと、急降下を始める。ずっと高速で振り回されて、ぼくはくたくたになっていた。着地すると同時に手を離されて、ぼくはべちゃりと地に伏せた。
「大丈夫か」
「…ちょっと酔ったみたい」
「すまん、急ぎなものでな」
 姉上は苦笑いした。姉上について行くにはまず上手く飛べるようにならなきゃな、と思った。
「着いたの?」
 いつまでも地面と仲良くしてるわけにもいかない。ぼくはむくりと起き上がって問うた。
 姉上はこくりと頷くと、近くにある小屋を指し示した。
「用事があるのはその家だ」
 家、と言うより物置みたいだ。ずいぶんボロボロだなぁと思った。姉上は開いていないドアからするりと中に侵入した。ぼくはぎょっとした。体を半分だけ出して、姉上はぼくを手招きした。
「どうやってるの?」
 姉上は首を傾げる。ぼくが、ドアから突き出した彼女の体を指差すと、ああ、と納得したように言った。
「普通に進めばよい。いま我々には器がない。物質世界のものは我々には影響しない」
 ぼくは恐る恐る手を突き出した。ドアの手応えがない。本当だ。ぼくが理解したのを確認して、姉上はするりと小屋に滑り込む。ぼくもえいやっと飛び込んだ。
 荒い息づかいが聞こえた。すぐ近くに人がいてびっくりした。ぼくはあわてて姉上に駆け寄る。
「できるだけ人には触れるな」
 難しいことを言う。小屋はとても狭くて、足の踏み場がほとんどない。毛布のようなものが敷き詰められていて、そこに八人の人間がいた。よく見ると、みんな子供だった。みんな同じ薄汚れた銀髪で、みんな痩せ細っていた。荒い息をしているのはそのうちの半数だった。全身に赤い発疹が出ており、苦しそうに横たわっていた。
「流行病だな」
 姉上は眉間にシワを寄せて光景を見ていた。子供たちがこちらに気づく様子はない。ぼくは観察を続ける。一番大きい少女が、粥のようなものを病気の子に与えていた。次に大きい少年が、瓜二つの少年の頭のタオルを換えてやっていた。小さな二人の子供は、内職だろうか、何かを一生懸命作っていた。
「だめ、ぜんぜん食べん…」
 少女が悲痛な声を上げる。
「みー坊、あんたも食べんさい」
 タオルを換えていた少年に話しかける。少年は頷くと、わきにあった小さなお椀を手に取った。粥を口に含んだが、飲むのが辛いんだろうか、ぎゅっと目を閉じて苦しそうに喉を動かすと、それ以上口にしようとしなかった。少女はまた違う子供に粥を運んでいた。
 ぼくは見ていられなかった。姉上はここになんの用事で訪れたんだろう。ぼくは姉上に視線を向けた。
「あの少女は、色素欠乏だろう」
 突然姉上はそう呟いた。ぼくはもう一度少女を見た。銀髪から、赤い瞳が覗いている。
「他の子は紫の目をしているだろう? あの少女はアルビノなのだ」
「アルビノ?」
 姉上は頷く。
「全くあり得なくはないが、世界では少し珍しい形質を備えて生まれてくるものがいる。
彼らを異端という。…彼女は異端なのだ」
 異端。ぼくはふと思い出した。家族からのけ者にされるぼく。短い耳のぼく。ぼくも異端だったのだろうか。
「異端は、異形化しやすいのだ」
 いぎょう、とぼくは問う。
「異形とは、魂が歪み異常に変質することだ。異形化すると、大いなる流れから切り離される。程度が軽ければ、翼が生えるくらいで済むが…異形化が進めばただの化け物となりやがては自壊する」
 翼が生える…ということは、ぼくたちも異形の一種なのだろうか。ぼくはぼんやり考えた。
「わしは、異端を見つけたらこうやって見ておる」
 姉上はぽつりと言った。
「異形化を続ける魂も、発見が早ければ救えるのだ」
 忙しく動き回るアルビノの少女を辛そうな表情で見る。
「白い翼になるならばよい、岸まで流されれば救われよう。ただそれ以上歪むようなら…助けてやらねばならん」
 悲痛な少女の姿は、ときどき黒くゆらいでみえた。これが歪みか、と思った。彼女が異形化するのは時間の問題に思えた。
「歪まないよう、今、助けることはできないの」
 ぼくは懇願するように言った。姉上にはきっと造作もないことだろうと思った。でも姉上はゆっくり首を横に振った。
「物質世界に干渉することは許されない。わしが手を貸せるのは、流れに切り捨てられてからだ」
「そんな…」
 ぼくの胸はぎゅうと締め付けられた。
「このままじゃいけん」
 ずっと弟妹に、粥を与え続けていた少女が、ついに椀を置いた。
「熱が下がらんと死んじゃう…」
 勢いよく立ち上がり、宣言した。
「薬もらいに行ってくる」
「姉さん、無理しないで」
 少年が泣きそうな顔で姉に取り縋った。
「僕が行く」
 少女はちらりと弟を見た。しっかりボタンを閉めて隠しているが、彼の首元にも赤い発疹が登ってきているのに気づいていた。
「あんたは下の子をみてて。すぐ戻るから」
 少女は弟を座らせると、ぼろな上着を羽織って家を駆け出した。
「追うぞ」
 姉上の声を合図に、ぼくらも家を飛び出した。
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