ようこそ森の診療所へ
 ふわふわ、浮かんでいるようだった。ゆらゆら、ゆりかごのように揺らめいて心地がいい。
 こんなに穏やかな目覚めは初めてだ。ぼくはしばらく微睡みを楽しんでいた。
 頬になにかが触れた。くすぐったくて目を開ける。茶色の柔らかそうな髪の毛だった。髪の毛…?
「目を覚ましたか」
 見上げると、女の人の顔があった。知らない女の人。ぼくは女の人に抱き抱えられていた。
「あ、あうあ…」
 ぼくはびっくりして何か言おうとしたが言葉にならない。女の人はくすりと笑った。
「慌てずともよい。疲れておろう、もうしばし休め」
 その笑顔も、声も、とても柔らかくて安心した。ぼくはもう一度女の人に身を預けた。
 お母さんみたいだ、と思った。お母さん? 思い出そうと思ったが、ぼくのお母さんの顔は思い出せなかった。
「お前の名前はバニアというのだろう」
 女の人は言った。ぼくは自分の名前を覚えていなかった。でも、ぼくは頷いていた。
「それでいい。お前はバニア。それを覚えていれば今はそれでいい」
 女の人は優しく笑った。ぼくは安心したらとても眠たくなった。
「ゆっくり休むといい。いくらでも時間はある…」
 柔らかい声は心地よくて、ぼくの意識はまた遠のいていった。

 怖い夢を見た。たくさんたくさん見た。ぼくは泣いた。叫んだ。怖くて目を覚ますと、いつもあの女の人が微笑んでいた。そしてぼくの名前を呼んでくれた。ぼくは安心してまた眠りにつく…
 それを何度繰り返しただろうか。
 ぼくは女の人を見上げた。変わらず優しい微笑みを湛えている彼女。この人は誰だろう。ふとそう思ったんだ。
「…あなたは だれ?」
 言葉が出た。意味のある言葉が。ようやく意識がはっきりしてくるのを感じた。女の人もそれに気が付いたのか、嬉しそうにくすりと笑って応えてくれた。
「わしはアネモネという」
「アネモネさん…」
 女の人の名前を口の中で転がす。聞いたことのない名前だった。
「アネモネさんは、ぼくの おかあさん?」
 ぼくの問いに、彼女はアハハと大きく笑った。
「母ではない。残念ながら」
 ぼくはがっかりした。
 不意に自分の足元が目に入った。可愛い黒い靴を履いていた。全身を見る。白黒チェックのスカートと黒いフリルたっぷりのブラウス…町のお金持ちの子が着ているような、憧れのファッションだった。
「ここではイメージがお前の姿になる」
 疑問に答えてくれるようにアネモネが言った。
「お前がなりたいお前の姿になる。もう物質という檻はないのだ」
 言われている意味はよくわからなかったが、この服は昔ぼくが欲しがってた服のような気がした。
 周りに目をやった。ぼくたちは崖の上にいるようだ、広大な世界が一望できた。
 色のない世界だった。キャンバスに墨をこぼしただけのような世界だなと思った。灰色の空、黒い大地に白いものがまだらに堆積している。ところどころ廃墟のような建物が点在しているだけの、なにもない世界だった。
 ぼくはようやく、いま置かれている奇妙な状況に気が付いた。
「ここは、どこ? あなたは、だれ?」
 アネモネはぼくを膝から下ろすと、スカートを払いながら立ち上がった。
「順番に説明する。行こう」
 そしてぼくの手を引いて歩き出した。
 ぼくはぱちくりとした。アネモネの背には灰色の翼が生えていたんだ。

「ここは地界という。世界から拒絶されたものが住まう世界だ」
「ちかい?」
 アネモネはこくりと頷いた。
「地上で人を恨み、歪んでしまったものたちが流れ着く場所だ」
「歪んだ…」
 近くでさわさわと流れる灰色の小川を眺める。奇妙な形をした魚がプカプカと漂っていた。
「本来、生物は皆、肉体の死とともに大いなる流れに回収され、世界とひとつになる。そこで再び新しい肉体を与えられるのを待つのだ」
 アネモネは空を見上げた。キラキラとした一筋の光の川が流れているのに気が付いた。
「あれが、大いなる流れ?」
「ああ。命の大河だ。…歪みに侵されてしまった一部の命は、川から打ち上げられ『岸』で目覚める。そして永遠に世界をさまよい続けるのだ」
 しばらく二人で川を眺めた。あそこにみんながいる。ぼくはやっぱり置いてけぼりの仲間はずれなんだ。なんだか寂しい気分になった。
「岸に流れ着くものにも二種類いる」
 アネモネは再び歩き出して言う。
「徳の象徴、白い翼を持つものと、罪の象徴、黒い翼を持つものだ」
 ぼくの背中にも何か生えているのだろうか。気になって、小川に歩み寄った。大きな黒い翼がそこにはあった。
「翼が大きいほど、背負っているものが大きい」
「罪…ぼくはとても悪いことをしたの?」
 アネモネはゆっくり首を横に振った。
「生きている限り、罪というのは皆に平等に存在する。罪は自らが負おうと思わねば背負わぬものだ。ただお前は、それだけ大きな罪を背負おうとしている、それだけのことだ」
 アネモネの柔らかい微笑みで、ずしりと重く感じた背中が、少し軽くなった気がした。
 アネモネはとても大きな灰色の翼を背負っていた。灰色の翼は何を象徴しているのだろうか。
「岸には、二種の魂が流れ着く」
 アネモネは、小川を眺めていたぼくの手を引いて歩き出した。
「岸の先の世界には、美しい白い翼の世界がある。きっと、地上のものは天国と思うだろう世界だ」
 天国。ぼくはあたりを見回した。灰色の荒野。ここはさながら地獄のようだと思った。
「白い翼は黒い翼を嫌う。白い翼の王国に入れてはくれない。ここは地上にも天界にも追われた黒い翼が最後にたどり着く世界だ」
 ぼくは罪を犯したから、地獄に堕ちたのか。しょんぼりしたぼくの手を、アネモネがぎゅっと握った。
「わしは、罪を感じているものほど救われるべきだと思っている」
 アネモネは、前を見据えながら強い口調で言った。
「救われたいか、色のある世界を見たいか、バニア」
 急に問われてどきりとする。でも、ぼくははっきり、うん、と答えた。
「ならば、わしに付いて来い」
 アネモネは立ち止まり、眼下に広がる世界を見た。
「わしはこの世界を緑あふれる楽園にしよう」
 アネモネの横顔は決意に満ちていて、瞳はきらきら輝いていた。
 ぼくは幸福を感じていた。この人はぼくを仲間にしてくれる。一緒に色鮮やかな世界を見たいと思った。一緒に歩きたいと思った。
ぼくは返事のかわりにぎゅっと彼女の手を握り返す。
 ぼくを見てくすりと笑ってくれる彼女はとても頼もしく見えた。ぼくはもうちょっと甘えてみたいと思った。
「ねえ、アネモネさん… 姉上って呼んでもいいかなぁ?」
 アネモネはきょとんと目を丸くしたが、すぐにアハハと豪快に笑った。
「母にはなれんが、姉ならよい。今日からお前はわしの妹だ」
 ずっと夢見てきた、暖かい家族、優しい兄弟…。ぼくは、いままで生きてきたなかで最高に幸せだった。

< 2 / 17 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop