花散里でもう一度


「…綾、綾、綾」

子が母を呼ぶ様に、何度も繰り返し私の名を呼ぶ茨木。

囁く様な、小さな声で。

きっと不安でたまらないんだ。

私だって…怖い。

一人になってこの子を産み育てられるのか。

膨らみをそっと撫でる。

茨木の右手を取り、その膨らみに導く。

手に伝わる微かな振動。

「腹を蹴る様になったんだ。感じる?」

泣き出しそうなのは私。

いつまでも一緒にいたいと、夢を見てしまう。

でも、私は母になるのだ。

強く在らねばならない、子を守り通す強さを身に付けなくてはならない。

だから、ごめんな茨木。

縋り付く様なお前の手を、振りほどか無くちゃならない。

独り残される者の気持はよく知ったつもりだ、それを知りながらお前の元を去る私を許してくれ。

見上げれば、驚きを浮かべた茨木がいる。

芽生えた命が確かにいるのだと、今初めて実感したのかもしれ無い。

クスッと小さく笑う私を後ろから抱きしめる茨木は、頬擦りした。
チクチクする髭が、誰かを思い起こさせる。

「…綺麗な衣も、紅も、何も与えてやれない…俺お前に何もしてやれなくて…なのに、最高の贈り物だよ。ありがとな綾。…ごめんな…。」

茨木、私がしてあげられる事なんて何も無いよ。
この子は茨木が私にくれたんだ。

この子がいてくれる事で茨木が前に進む力を得たなら…。

そう願わずにはいられない。


なんて身勝手な願いなの、茨木の為と言いながら、この憎悪に塗れた場所から尻尾巻いて逃げ出す私。
憎まれても構わない、茨木の側で子を産み育てて見せる、と言えない臆病な私。
けれど、そんな私を忘れないでと身勝手に、みっともなく未練を垂れ流し、彼に鎖を掛ける。

私を見て、私を許して、私を…私だけを愛して、私を忘れないで。

醜い女、どうしようもない位酷い残酷な女。

「早く会いたいよな。男なら茨木に似て欲しいぞ。私に似たらちびっこ過ぎて可哀想だ。」

醜い身の内からの叫びに蓋をして、ことさらなんでも無い様に笑って見せる。

茨木との残り僅かな時間、笑ってそばにいたい。

これから更に雪深く閉ざされる山、暫くはここで足止めされる。
けれど、春が来れば、彼らは北を目指し旅立つ。

その時が、別れの時になる。

互いに苦しむに違いない。
けれど、益々大きくなる腹を抱えて山中を歩くのは余りに厳しい。皆の足を引っ張るのは明白。
無事に子を生む事と、これ以上茨木の立場を悪くしない為にも…仕方が無い事だ。

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