花散里でもう一度

努めて思い出さない様にしていた、生まれ故郷の景色。

海と、海に生きる人と、その海の恵みに生かされていた日々。
日の光に煌めいた海面から浮かび上がる母は、いつも両手一杯の貝やら海藻やらを取って来た。
海女を生業にしていた母。

女手一つで私を育てた母は、死ぬ間際迄私の父親について一言も喋らなかった。

二人の出会いは、国司として赴任して来た父が、その地で母を見初めた。
任期が終り、都に帰る父は母を連れて行こうとしたが、母はそれを断わりまた腹に出来た私の事も、父には告げなかった。

何故か…は、もう確かめようの無い問だけど、推測は出来る。
身分ある父の邪魔にならない様に、将来を慮って何も言わずに別れを告げたのだろう。

強い人だった。
優しい人だった。

朝に夕に海と日に、手を合わせる母の祈りの言葉は、

ーどうか幸せにー

もう会う事も無い人の幸せを、祈り続けていた。
唯々静かで、揺らぎない想い。

私に同じ事が出来るだろうか。

でも、母の気持ちは痛い程わかる。
茨木の為に…今私がしてやれる事と言えば、母と同じ道を行く事しかない。



「前にもいったが、ここで…別れよう。茨木には皆を守る役目がある、その邪魔になりたくない。行ってくれ、私の為に行ってくれ。」

握った手に一層力を込め、端正な顔を険しくさせ首を振る茨木は、幼子がイヤイヤとぐずる様に見える。

「だめだ。一緒に行くんだ。」

そっと茨木の背に手を回し抱きしめる。
これが最後だから。
私、ちゃんと笑えてるよね。

「…行ってくれ。それで、私達を迎えに来てくれ。何年経ってもいい…いつか必ず私の元へ帰って来て。私はいつまででも、茨木お前を待っているから。」

だめだ、目の前の茨木が滲んで見える。
堪えようと思えば思う程、止まらない。
ポロポロ零れ落ちる涙を、不器用にも拭う優しい指先。
きつく抱きしめられ、しばらく無言で、互いの体温を感じるかのような時間が過ぎる。

「いやだ、綾がいないだなんていやだ…でも、それじゃお前を困らせるだけなんだな…。」

ー綾がいないだなんて、いやだー

常にはそんな言葉を言う人じゃない。
でも、嬉しかった。
茨木のありのままの気持ちを、言葉にしているのが解ったから。

「大好き、茨木。」

泣いて酷い顔をしているだろう私、最期に茨木に見せる顔は笑顔で有りたかったよ。
唇に柔らかい感触、何度も重なるそれに喘ぐ私の口の中へ、茨木の舌が挿し入れた。私も拙いながら舌を絡ませ応える。
口の端から唾液が零れるのも気にせず、夢中になって貪り合う。
あぁ、体は正直だ。
口付け一つで体の芯に火が灯る。
体の奥底に湛えられた泉が溢れ出す。


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