渡り廊下を渡ったら

ふいにかけられた声に、彼は私の手から唇を離して視線を投げた。
けれど手を離してくれる気配はなく、力を入れて引こうとしたら逆に引き寄せられてしまった。

「・・・あれぇ、団長じゃないですか」
飄々とした声が、耳元で響く。
いい声をしているとは思うけれど、いかんせん近すぎて不快なのだ。
顔に出してはいけないと分かっていても、ぐっと歯を食いしばって我慢していると、口元が不快感で歪んでしまう。

彼の肩越しに、団長が見えた。
思っていたよりも近くまで来ていて、眉間にしわが激しく寄っているのが分かる。
深い緑色をした瞳が冷ややかで、怖かった。
昨日の夜にはそんな目をするだなんて思いもしなかったからか、動揺を抑えられない。

それにしても、ノルガくんはどうしてこんなに挑戦的なのだろうか。仮にも、1等騎士なのだから団長の部下のはずだ。
彼は見せ付けるように、私の手を再び口元に持っていく。
・・・もうやめて欲しい。
体の芯から湧き上がってくる不快感に耐えられなくなって、私は口を開いた。
「ちょっと、いい加減離し、」
引っ張ろうとしても握られた手が痛む。
私に何の恨みがあるっていうんだ。女性相手に手加減したらどうだ、騎士なのだから。
痛くて顔を顰めると、団長の声がした。

「彼女の手を借りたい。
 今すぐ手を離して、お前は職務に戻れ。外でお前の部下が指示を仰いでいたぞ」
私は手の痛みに集中してしまっていたので、2人の様子は全く見えていなかったが、何度かやりとりがあったらしく、ノルガくんは手を離してもと来た方へ歩いていった。
背の高い彼は、歩くのも速いのかあっという間に背中が小さくなっていく。

そして、やっと解放された手が、軽くしびれていたことに気づいた。
どうやら思っていたよりも、相当強く握られていたようだ。握られていた部分が赤くなって、手のひらが汗をかいている。
・・・私に一体何の恨みがあったというのか・・・。
解放されて胸を撫で下ろした私は、気休めに息を吹きかけつつ考える。
本当に、何のつもりだったのだろう。今日は朝からロクなことがない・・・。
「・・・痛むか」
短くため息をついたところへ、団長の気遣わしげな言葉がかかった。
先程までの、刺すような冷たい声ではないことに内心ほっとして、私は首を振る。
本当は痛いけれど、彼にそれを訴えたところで何かが変わるわけではないから。
「すまない。普段は業務に忠実な部下なんだが・・・私の指導不足だ」
「・・・いえ、とりあえず私の手も無事だったし、もういいです・・・」
手を擦りながらため息混じりに言うと、今度はその手を団長に取られて凝視される。

・・・団長の視線が痛い。
肌のキメでも見てるんですかあなたは。
それでも彼の手は、壊れ物を扱うように気遣いを感じさせる。
ノルガくんとは違って、彼の手からは体温がちゃんと伝わってきた。それが心地良く感じて、手の痛みも気にならなくなってきた。
そして何となく彼の様子を眺めて、はたと気づく。
そういえば、昨日は一緒に温泉に・・・。
温泉での団長の姿が脳裏に蘇ってしまって、顔に血が上ってきたことが自分でも分かった。

いや、あれは事故のようなもので仕方のなかったことなのだ。
そう自分を宥めながらも、どうしてもその姿が頭から離れてくれない。
思い出すのは、実戦で嫌というほど剣を振るったのだろう、いくつもの傷跡が散らばった大きな背中や、逞しい腕だ。
・・・あれだけ傷があれば、ナイフが刺さったくらいでは動じなくて当たり前か。

変に冷静になった頭で考えていると、そういえば、と思い出した。
「あの、団長?」
「ん・・・?」
まだ彼は私の手を凝視していて、不思議とそんな彼の横顔を見ていたくなった。
もう少し、この深い緑色を眺めていたい・・・と。
そんな思いを、こっそり胸の内に隠したことに気づいたのか、彼が視線をゆっくりと私に移した。
「・・・どうした」
「私、ミナですよ・・・?」
気づいてますよね、という意味を込めて、聞いてみる。
すると、彼は何でもないことだと言うように頷いた。
そのままそっと私の手を離す。
自由になった手をにぎにぎと握ったり開いたりして、感触を確かめた私が団長をちらりと見上げると、彼は柔らかく目を細めた。
そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「・・・とてもいい」
「え・・・?」
バリトンの声を更に低く、囁くように。
冷静な自分は彼に褒められたのだと理解しているのに、その衝撃に何も言葉が出てこない。

渡り廊下から見える中庭では、子ども達が出て遊び始めていた。
その姿は見えるのに、彼らの無邪気な笑い声や遊具を取り合う声がやけに遠くに聞こえる。
初めて見る団長の表情に、凪いでいたはずの私の神経がそこに集中してしまって。

部下にでも、お世話係りの少年にでもなく、ましてや渡り人に説教するでもないカオ。
半ば見とれるようにして視線が縫い付けられてしまっていると、おもむろに、彼が私の結い上げた髪の後れ毛に、指で触れた。
なんだか、背中がざわざわしてしまう。
いや、ここ数年眠ったままだった胸の奥の方が、小さく震えている。
これはいけない、と思うのに目が逸らせなくて、彼の深い緑に潜っているような変な感覚に陥ってしまった。

このままでは、溺れてしまうかも知れない。私は泳げないのだ。
どれくらいの時間が経ったのか。いやたぶん、ほんの数秒だろう。
彼が、言った。
「・・・見違えたな。とても、いい」

その口から零れた言葉も私を驚かせたけれど、何より優しさの滲む声が私の呼吸を止めた。
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