伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.16 前編



 「隠された遺産」が綺麗に片付けられ、適切に処理する旨が書かれた書面にディー様の署名がされると、それを託されたブルクハルトさんは弁護士の元へ向かった。
 書斎にはディー様と私だけが残される。
 テーブルの上にはゼルダが用意してくれたダージリンと、料理長が用意してくれたベリータルトが甘酸っぱい香りを漂わせて私たちの鼻をくすぐっていた。
 本当は聞きたいことがある。
 耳慣れない「バルツァー侯爵」がどんな人で、どんな「黒い噂」を持っているのか。
 今頃イリーネ様とお庭で楽しくティータイムを過ごしているであろうアルトゥール様と、お父様の事件について打ち合わせを終えたディー様は隣で落ち着いた様子でティーカップに口をつけている。
 反対に、意図的に侯爵の噂について詳細を避けた二人に何となく気付いていた私は、侯爵について触れていいものかどうか、考えあぐねていたせいでそわそわしてしまう。
 そんな私に気付いていたディー様は、少し経った頃不意に私の左手をとって視線を重ねてきた。
「言いたいことがあるなら言ってごらん」
「え、あ、いえ、あの…」
 正面切ってそう言われると逆に口ごもってしまう。
 だって彼らが侯爵の噂について触れなかったのは、多分聞かれたくないというより「聞かせたくない」のだと思ったから、敢えて私がそれに触れたら彼らの心遣いをふみにじることになってしまうもの。
 けれど躊躇って言い淀んでいる私を見て彼は一瞬笑みを浮かべると、素早い動きで私の世界を鮮やかにしてくれていた眼鏡を取り上げた。
 直後には唇にキスまで降ってくる。
「!?」
「隙を見せられたら攻めたくなるんだ」
 そんなことを言いながらまた顔を近づけてくるから
「ダメです!」
 両手で口を覆い隠してみたけれど
「じゃあこっちだ」
 なんて。
 ちゅ、と微かな音までさせて額に柔らかな感触。
 急激にくすぐったさが這い上がってくる。
 ああ、もう!またやられた!
 近頃彼はこうして私をからかう事がある。
 どうやら私の反応を楽しんでいるみたいだけれど、こちらとしては何となく面白くない。
 だからちょっとだけ彼を困らせてみたくなる。
 元来海千山千のつわものたちを相手に、日々同等以上に渡り歩けるほど駆け引き上手なディー様だから、苦手意識さえ消えてしまえば例え相手が女性であっても、私のような小娘をからかうなんて赤子の手をひねるより簡単な事だ。
 どうすればディー様は慌ててくれるかしら?
 涼しい顔で勝ち誇ったように落ち着き払ってタルトを口に運ぶ彼を見ながら考える。
 目には目を、となれば口づけだけれど、それは私が恥ずかしい。
 でもこのままじゃ面白くない。
 自分に被害なく彼が恥ずかしがってくれる事って…。
 ぼんやり考えながら甘酸っぱいタルトを一口、頬張った途端
(あ!!)
 思いついちゃった。
 我ながら良いアイディアだわ!
 即座に実行に移すべく、二口目…と見せかけたタルトを一欠けフォークに乗せて
「ディー様、はい」
 彼の口元に寄せた。
「!?」
 瞬時見開かれた瞳と、ほんのり赤く染まった頬。
 それを見てしまったら、私の笑みは深くなるばかり。
 こちらに向けられる彼の剣呑な視線も怖くない。
「私からは召し上がっていただけないのですか?」
 トドメとばかりに少しばかり口を尖らせて、寂しげに首を傾げてみれば
「くぅっ」
 短く唸り声がして、ぱくり、と。
 彼の口の中にタルトの欠片が呑み込まれていく。
 やったわ!!
 無言で咀嚼する彼の瞳はスッと細められて、鋭い光さえ宿しそうな勢いだったけれど、そんな様子さえ嬉しさにかわる。
 だって照れ隠しだって証拠だもの!
 と、喜んだのも束の間。
 気付けば
「エル」
 地を這うような低い声で呼ばれ、口元にはいつのまにかタルトが乗ったフォーク。
 え゛。
「ディ・・」
「先ほどのお礼だ。もちろん、食べてくれるな?」
 本気だ!!
 圧倒的な威圧感を放って彼のフォークが迫ってくる。
 な、何てこと!!
 ちょっとやりすぎちゃったかしら!?
 これってやるのとやられるのとでは全然違う。
 全身を駆けあがってくる羞恥は口づけと比べ物にならない。
 おかしいわ!
 私はほんのちょっと仕返ししたかっただけなのに!
「エ・ル」
 ずいっと。
 上質な銀のフォークがすでに唇に当たるほどで。
 結局、おずおずと口を開けば、味の分からなくなったタルトを咀嚼することになる。
 数秒前の自分を恨みたくなる。
「ごめんなさい」
 精神的ダメージは測りきれない。
 思わず素直に謝罪を口にすると、ディー様はふっと穏やかな笑みを浮かべて私の両手首を持って、そのまま優しく彼の方へ引き寄せた。
「謝る必要はない。なかなか刺激的なティータイムになった」
「刺激的すぎます」
「イリーネとアルはいつもやってるぞ」
「えっ?」
 驚いて体を離すと、楽しげな彼の瞳が目に入る。
「とても嬉しそうにしているから、どんなものか試してみたかったが…まさかエルからやってくれるとはな。非常に照れくさいが、悪くない」
 そう言ったディー様は心底満足しているらしい。
 つまり彼はほんの少し照れただけで、慌ててなんかいなかったのだ。
 とても、面白くない。
「拗ねているのか?」
「だっていつも恥ずかしいのは私だけなんだもの」
 ディー様はいつだって余裕綽々で私の様子を楽しむばっかり。
 女性が苦手だったなんて嘘みたい。
 でもよく考えたら女性に不慣れなわけじゃなかった。
 言い寄ってくる数多の女性たちをあしらっていたわけだし、それでも恨まれたりしないのは断り方が上手だからだわ。
 それに…色々上手すぎる。
 当然かもしれないわ、今まで女性と何もなかった…とは限らないもの。
 本気になれる方がいなかっただけで、それなりのお付き合いはあったかもしれない。
 そう思ったら、何だか胸が痛くなってきた。
 けれど
「エル」
 名前を呼ばれるのと同時にこめかみに口づけられて、頬を両手で包み込まれた。
 穏やかだけれど強引に視線を合わせられる。
「どうした?そんなに嫌だったのか?」
 心配そうに問われるけれど、少し捻じれた気持ちはすぐには戻ってくれない。
「嫌じゃありません」
 答えた口調も変に尖ってしまって、でもそんな風に不機嫌な自分を見られるのも嫌で、彼の両手をそっと外してから彼の胸に顔を伏せて隠した。
 突然の行動に戸惑いながらもディー様は受け入れてくれる。
 頬から外された両手はしっかりと私を抱きしめてくれていた。
 何かしら、この嫌な痛みは。
 どうしてこんなに腹立たしいの?
 ディー様に怒っているわけじゃないのに。
 もやもやする。
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