ボレロ - 第三楽章 -


誰かに呼ばれた気がした。

振り向いたがそこに見知った顔はなく、気のせいだったのかとふたたび足を進めると、また声が聞こえてきた。 



「宗さん、こっちよ」


「はぁ?」



長身の女性が親しげな笑みを向けながら、しなを作って私を手招きしている。

呼ばれている自信がなく自分の顔を指差すと 「そうよぉ」 と媚びた声が飛んできた。



「お・ま・た・せ……あら、約束を忘れちゃったのかしら?」


「えっ、あの……」



もぉ、やぁだ、と甘えた声がして、女が私の腕につかまってきた。

振り払うことも、ひるむ間もなかった。

「君は誰だ」 と当惑した顔で尋ねると 「知らないふりがお上手ね」 とわけのわからないことを言ってくる。



「やめてくれないか。こんなところで困る」


「あら、こんなところでなきゃいいの? うふっ、わかった。いいわ」



意外とあっさり腕を離してくれたが、また 「宗さん」 と呼んできた。

君など知らないと言おうとした私の声に、須藤社長の声がかぶった。



「近衛君、さきほどの約束はなかったことにしてもらう」


「お待ちください。これは、あの、誤解です」


「何が誤解だと言うんだね。私は非常に不愉快だ。失礼するよ」


「お待ちください、須藤社長!」 

 

追いかけることはできなかった。

怒りを滲ませる背中が 「来るな」 と言っているようだった。

それにしても、この女はなんだ。 

怒鳴り散らしたいところだが、この場でこれ以上の醜態をさらすわけにはいかない。

怒りを無理やり押さえ込み搾り出すように声を出した。



「説明してもらおうか」


「あの方が、須藤社長……」


「そうだ。君は誰だ」


「珠貴のお父さまだったのね……私、とんでもないことをしてしまったわ。すみません、本当にごめんなさい」



どういうことなのかとジリジリと責め、責任を取ってもらおうかと凄むつもりだったが、女は謝り続け、ついには顔を覆って泣きだした。

「ごめんなさい」 と謝ってくれるが、もともと小さくない彼女の声は庭園に響きわたり、行きかう人の耳に届き視線が集まり始めた。 

まるで私が泣かせているようで、泣き続ける彼女を必死になだめるハメになっていた。



「泣いてちゃわからない、とにかく話をしてくれないか。俺にはさっぱりわからない」


「珠貴に悪いことをしてしまったわ。私の責任です。責任を取らせていただきます」


「君は珠貴の友達なのか?」


「……波多野結歌です……すみません。失礼します」



名前だけ言うと長身を折り曲げるように頭を下げ、私の引きとめる声を振り切るように立ち去って行った。

彼女は何者だ? 珠貴の友人? 俺の名前を知っていたが……
 
いくつもの疑問を抱えながら彼女の走る背中を見ていると、向こうから堂本がやってくるのが見えた。

そういえば平岡はどこにいるのかと思いながら、こちらに向かっている堂本へ合図を送ろうと手を上げたのだが、堂本は私には気づかず、驚くことに今私の前から去っていった女性へ 「ゆいかさんじゃないですか」 と、声を掛けたのだった。



「その顔、どうしたんですか」


「あっ、りくちゃーん。どうしょう」 



りくちゃん?

堂本の名前は……「里久」 だったと思い出しながら、目の前で繰り広げられている不思議な光景を見つめた。

波多野結歌が堂本の腕にすがりながら 「珠貴に悪いことしちゃったの」 と涙ながらに訴えている。

堂本は 「落ち着いてください。ゆっくり話してください」 と、いたって冷静だ。

私も話を聞いた方がいいだろうと思い二人のそばに近づいて行ったが、私の姿を認めた彼女は 「本当にごめんなさい」 と言うと、また逃げるように走り出したのだった。

あっけにとられるとはこのことで、もう何がなんだかわからなくなってきた。

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