ボレロ - 第三楽章 -

近衛潤一郎の休日



近衛潤一郎を知る人は、誰もが口をそろえて言う。

『温厚な人柄で愛妻家』 だと……

潤一郎が結婚したのは数年前、妻となったのは、祖父が決めた幼い頃からの婚約者紫子だった。

紫子の成長を見てきた潤一郎にとって、結婚前もそのあとも、彼女がそばにいるのが当然で、ありったけの愛情を注ぐ唯一の相手である。

『外務省国際情報局 第五国際情報室 情報担当官』

潤一郎の名刺には、このように記されているが、 彼の実質的任務は、家族である紫子も知らぬこと。

夫が、実は諜報機関に属していると知ったら、どう思うだろう……

妻は変わりなくそばにいて、自分を見てくれるだろうか……

潤一郎が密かな不安を抱えているなど、紫子は気づきもしない。

不意の海外出張はいつものことで、出張中の連絡は厳禁である夫の任務に不信を抱くこともなく、なにも言わず黙って受け入れている。

出来た妻であるとわかってはいるが、ときに妻の本心はどうなのかと、彼女の心のうちをのぞきたくなる潤一郎だった。


久しぶりの長期休暇を妻と過ごすために、高原の別荘に来た。

近衛の祖父が建てたこの別荘は、二人が結婚するとき父から譲り受けた。

普段は留守がちな潤一郎に代わり、紫子が管理をしている。

別荘の管理だけでなく、夫婦に関わる一切を紫子が一人でこなしているといってもいい。

近衛潤一郎の妻の立場は、一介の公務員の妻のそれをはるかに超えていた。

情報担当官の妻だけならさほどのことはないが、さらに近衛家次男の妻としての立場と振る舞いが求められる。

目立つことなくと心がけているようだが、近衛家の一員として表に立つことも多いため、控えめにしてばかりはいられない。

潤一郎が出られない席には代理として出かけ、親族の付き合いだけでもかなりの負担である。

けれど、それらをそつなくこなしてしまうのが紫子だった。

先日も兄夫婦の新居の祝いに招かれたが、潤一郎が不在のため紫子だけの出席となった。

友人たちはみなパートナー同伴だったと聞き、ひとりで出席させて悪かったねと潤一郎が言うと、静かに首を振ってから 「ほら見て」 と懐かしい品を目の前に出してきた。



「大叔母さまがくださったのよ。潤一郎さんがお好きでしょうとおっしゃって」


「おばさまにとって、僕はいつまでも子どもなんだろうね」


「ご自分のお子さんと同じだと思っていらっしゃるのでしょう。だからお屋敷のことも気にしてらっしゃるのよ。

宗一郎さんと平等にしてあげたいから、別荘をくださるというのに、あなた、断るんですもの」



兄夫婦の新居は、大叔母が譲ったものだった。

兄は広大な家屋敷に住むことになったが、弟はいまだマンション住まいである。

大叔母は、それをたいそう気にしていた。

潤一郎には別荘を譲るからと言われたが、すでに持っている、だからいいと潤一郎は断った。

断ったものの、大叔母の気持ちを汲んでやれなかったのではないかと気になってもいた。



「宗には広い家が必要だ。でも僕には必要ないと思ってる。別荘もそうだ、僕はここで充分だけどね。ゆかは?」


「私もそうよ。大きなお屋敷にひとりは寂しいわ。マンションでも広いくらいよ。別荘はひとつでいいわ、大叔母さまには申し訳ないけれど……」



幼い頃好んで食べた菓子を出され、懐かしく手に取っていた潤一郎は、寂しいと口にした妻が気になった。

やはり寂しい思いをさせているのか……と、待つことが日常化している妻がかわいそうに思えてきた。

< 334 / 349 >

この作品をシェア

pagetop