ボレロ - 第三楽章 -


鳥の声が聞こえるよ……

穏やかな息遣いで彼が耳元でささやいた。

そうね……と返したつもりだったのに、私の声は熱く漏れる息で消えていた。



「野鳥かな、名前を知ってる?」



いいえ、と言えず首だけを振る。

綺麗な鳴き声だねと、また彼がささやいた。

鳥の声も林の音も、私の耳には聞こえない。

聞こえてくるのは彼の静かな声と、騒ぎ立てるような自分の胸の音だけ。

薄い夏の服が肌から離れると、夏の空気にさらされた肌は頼りなく、無駄だと知りつつ手で隠した。

ふっ、と小さく笑う声が上から降ってきた。



「いまさら抵抗する? もう遅いよ」


「でも……」



声の抵抗は形だけ。

隠した手をはずす力に抗えず、彼の目にすべてをさらす現実を受け入れた。

窓から差し込む午後の光を避けるように、ゆっくり目を閉じた。

肌をいつくしむ手にすべてをゆだね、導かれるままに初めての時を迎えた。



夕方の日差しが眩しくて、光を手で遮りながら重いまぶたを開けた。

私が良く知る顔が隣にあった。

けれど、目を閉じた顔を見たのはそう何度もない。 

整った鼻筋にそっと手を伸ばした。

指先で顔を撫でるけれど、彼が目覚める気配はなく、大胆になった指は彼の耳へとたどり着いた。

指だけでなく、耳に顔を寄せて唇をおく。

柔らかな耳朶を甘く噛んで、好き……と声を送り込んだ。



「僕も好きだよ」



はっきりとした声があり、驚きのあまり体全体が飛び跳ねた。

嬉しさよりも恥ずかしさが先に立ち、体を引いてベッドの端まで退いた。



「ベッドの上で鬼ごっこ? 逃がさないよ」



寝返りを打ち、追いかけてきた彼によって抱きすくめられた。

まだ素肌の重なりに慣れず隙間を作ろうと身をよじるが、彼の腕が私の動きを封じ込む。

首筋に熱い息が吹きかけられ思わず声が漏れた。

自分のものとは思えない甘い声が部屋に響く。

いつものふたりではない時を過ごしたのだと思い知らされて、恥ずかしさがこみ上げてきた。

別荘に来たときといまと、確かに何かが変わっていた。

体の変化だけなく、新しい何かが心に芽生え、それらは私を安心させるものだった。

大切な人が、もっともっと近くに感じられて、心の中に彼の居場所ができたような、そんな安心感に包まれている。 

抱き合ったままどれくらいの時がたったのか……

傾きかけた夕日は、いつの間にか沈んでいた。



夕食後 二階のバルコニーに行こうと誘われた。

幼い頃と同じように、手をつないで階段をのぼる。

客間に入り、部屋を抜けてバルコニーへと足を進める。

奥の寝室が目の端を掠めて、二人で過ごしたひそやかな時間がよみがえり、体の熱が瞬く間に全身に広がった。

手をつなぐ彼に気づかれぬよう、胸の騒ぎをそっと収めた。 

肌をなでていく高原の夜風はひんやりとして、広がった熱も鎮まっていった。



「ゆか」


「なぁに?」


「その……」


「どうしたの?」


「言っておこうと思って」



そう言ったものの、彼は口を閉ざしてしまった。

無言のまま背中から私を抱き、胸の前で手を握った。

背中を通して彼の鼓動が伝わってくる。

何かを決めたのか、彼が大きく息を吸った。



「ゆか」


「はい」


「ずっとそばにいて、僕の帰りを待ってて」


「急にどうしたの? いつでも私は待ってるわ」


「だから、その……」


「はい?」


「これからも、結婚しても、僕が帰るのは、ゆかがいるところだから」


「潤一郎さん」


「やっと言えた。婚約はしてるけど、ちゃんと言っておきたくて」


「うん……」


「うん、ってそれだけ? いまのプロポーズだよ」


「わかってる」


「返事は?」


「……はい」


「ふっ……安心した」



鎮まった熱がふたたび体に広がっていく。

覗き込んだ彼の顔に自ら顔を寄せて頬の熱を伝えた。
 
静かな林に風が吹く。

さらさらと木の葉の擦れる音が聞こえてきた。

< 333 / 349 >

この作品をシェア

pagetop