ボレロ - 第三楽章 -


森と湖の国は、サンタクロースの国としても知られている。



「サンタのモデルは昔のトルコの司教と言われているが、ヨーロッパ各地にサンタクロース伝説はあるよ。

サンタは双子だったとか、悪い子に仕置をしたとか、北極に住んでいたがトナカイの餌に困って北欧に移住したとか、夢のあるものからダークなものまでね。

そういえば、ゆかは中学に入る頃まで信じていたね」


「だって、誰も教えてくれなかったんですもの。潤一郎さんも、私がサンタクロースを信じているから面白がっていたでしょう」


「面白がってなんていないよ。いつか真実を知るときがくる、あえて言う必要はないと思っただけだ」



初めて会った冬から、毎年欠かさず紫子にクリスマスプレゼントを渡していた潤一郎は、これは僕からだよ、サンタクロースのプレゼントは別に届くんだよと、幼い紫子の夢を壊さない言葉を添えていた。



「あなたはいつまで信じていたの?」


「サンタを? そんなものはいないと思っていた」


「どうして」


「そりを空にとめて煙突から家に入るなんて無理だ、それにトナカイは空を飛ばないよ。

でも、空を飛ぶ機能がそりに備わっているかもしれないなんて、子どもらしい疑いももっていたよ。

全部がおとぎばなしだとわかったのは、小学校に入って間もなくだったかな。

クリスマスの夜、全世界の子どもたちにプレゼントをくばるのだと聞いて、サンタはトナカイをどれだけ働かせるつもりだと腹がたった。もっとも一晩で世界中に配るなんて不可能だよ」



これもトナカイだねと言いつつ、切り分けた肉を口に運んだ。



「ねぇ、わざと?」


「うん?」


「夢のある話かと思ったら、いきなりお肉がトナカイって」


「現実だよ。夢だけでは暮らせない。森は厳しい自然にさらされているから美しい。空のカーテンも、極地だから見られる」


「そうだけど……」


「トナカイのソリに乗ってみるかい?」



サンタクロースの気分になれるかもしれないよと笑う潤一郎は、意地悪でもなんでもない。

自分の目で確かめるものだけが真実だ。

それは、厳しい世界に身を置く彼が、危険から自分自身を守るための術ではないのかと、紫子は漠然と思った。

日本で帰りを待つ紫子が知ることのない顔が垣間見える。

夫の仕事は、それほど過酷なのだと感じながら、不安な顔を隠した。

結婚した時から、彼の前ではいつも笑っていたい、そうしようと紫子は決めていた。



「サンタはこんな風景を見ているのか。トナカイの後ろ姿は美しいとは言えないね」


「ふふっ、これが現実よ」



そりに揺られ、凍てついた空気に身を縮ませた紫子を潤一郎が抱えこむ。

抱えられたくらいでは温かくはならないが、ふたりで寄り添う時を大事にしたいと紫子は思った。


航空機のパイロットと結婚した友人がいたが、彼女は待つという恐怖に耐え切れず別れを選んだ。

夫を空へと送り出し、心配しながら帰りを待つ生活は、予想以上に過酷だったと離婚後に彼女は語った。

「紫子さんは幸せね。ご主人は海外出張で留守も多いけど地上勤務でしょう。空の危険に比べれば地上は安全よ」 と言う友人の話を黙って聞いた。

潤一郎がどれほど危険な任務についているか、あなた知らないでしょうと言いたいのをこらえながら……

そう思う紫子も、夫の本当の厳しさはわからないのだが、あえて知ろうとせずにいるのは、友人が陥った恐怖を避けるためでもある。

知らなければ心配のしようもない、仕事で疲れた夫を暖かく迎えることが、自分の使命だと思うから。

けれど、不安で押しつぶされそうになる時もある。

子どもがいたら気も紛れるものだと無責任な発言をする外野もいるが、そうは思えなかった。

トナカイのそりに揺られながら、子どものような顔を見せる潤一郎は紫子だけのものだ。

夫の笑顔を独り占めできる時を持てる、だから待てる。

それは、紫子だけに与えられた特権だから。

ぽつりぽつりと雨が降りだした。

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