ボレロ - 第三楽章 -


「まさかの雨だよ。今夜は難しいかな」


「そうですね……」



恨めしそうな顔で大貫が空を見上げた。

最高の状態だと思ったんですけどね、明日に期待をかけましょうと二人を励ました。



「ゆか、残念だけど」


「こんな日もあるわ。楽しみは先にとっておきましょう」


「奥さんは前向きな方ですね」


「自慢の妻です」


「ははっ、まいったな」



照れもせず、こんなことを言ってしまう夫が愛しくて仕方がない。

休暇中の潤一郎は、留守がちであることを埋めるように惜しげもなく愛情を示す。



「じゃぁ、といってはなんですが、うちに来ませんか。嫁さんの料理はなかなかですよ」


「それは嬉しいな。ゆか、お邪魔しょうか。ここの暮らしを見せてもらう、絶好のチャンスだよ。旅行では体験できないからね」



旅先の潤一郎は多弁だった。

気持ちが高揚している証拠でもある。

冷静だ、物事に動じない、感情の起伏がない……

このように評されるが、潤一郎が努力してそうしているのではないかと紫子は思っていた。

感情的になることはないが、本来の彼はもっと情熱的である。

物事を冷静に見極めるのは、適当で中途半端を嫌うためであり妥協を許さない姿勢の表れだ。

新婚の頃、新居の家具選びにこだわる潤一郎に意外な発見をみた。

どれも同じだよ、早く決めてくれと言われたわと、結婚した友人たちは夫のインテリアへの興味のなさを嘆いていたが、潤一郎は妻の希望する物がそろうまで、辛抱強く付き合った。

生半可な妥協はいけないと紫子に教えたのも夫だった。

常に感情をコントロールしながらの任務は、潤一郎に多大なストレスを与えている。

紫子の前では本来の姿を取り戻し、ときには羽目を外す姿も好ましいものだ。


大貫家を訪問して、大貫の妻子もまじえて和やかな時間を過ごし、部屋に戻ったのは真夜中ちかくだった。

北の国の家は、外の寒さを忘れるほど快適だ。

部屋は春か初夏を思わせる暖かさで、半袖でも過ごせる快適な空間が保たれている。

薄着のまま浴室から出た紫子は、一緒にどうかと酒を勧められた。

潤一郎の隣に座りグラスを受け取り軽く合わせる。

少量を口にしただけなのに、喉を刺すような強い刺激に顔を歪ませた。



「北の酒は強いから気をつけて」


「潤一郎さんは慣れているのね」


「飲めないではすまないからね。宗が僕の仕事についたら、半月と持たないだろう。

もっとも、僕は会社経営には向かない。何万もの社員とその家族を守る責任は重い。

宗だからできる仕事だと思うよ。僕をこの仕事にと決めた大じい様の目は確かだった。

妻にも恵まれた。大じい様のおかげだね」


「本当に私でよかったの?」


「もちろんだよ。ゆかは、僕との結婚を迷った?」


「いいえ、迷ったことはないわ。私も夫に恵まれました」


「嬉しいね」


「もっと言ってあげましょうか?」


「続きはベッドで聞くよ」



おいで、とグラスを置いた手に招かれた。

触れた指先が熱いと感じた瞬間、紫子の体は宙に浮き情熱的な眼差しに射抜かれた。

夫の首に腕を回し首筋に顔をうずめた。



「ゆか、顔を上げて」



誘う声が頭上から降り注ぐ。

焦らすようにわざと横に向けた紫子の顔を、潤一郎の積極的な唇が追いかけて捉えた。

唇が重なるまでにさほど時間はかからず、体の熱が一気に上昇した。

体中の火照りを鎮める間もなく攻める手と唇に、紫子は我を忘れてシーツで身をよじり、甘い声を放った。

初夏を思わせる部屋は暑く、汗がほとばしる。

汗の粒を額ににじませ、唇を合わせながら肌をなじませる潤一郎は、紫子を快感の極みへと導いた。

あいにくの雨の夜は、ふたりだけの密やかな時間となった。


紫子の念願が叶ったのは、二日後のことだった。

空のカーテンは無限の色を重ね、幻想的な情景を作り出している。

壮大なオーロラの風景に、二人は言葉を忘れて見入っていた。

刻々と変化するな空は、日ごろ見慣れている都会の空とはまったく別のものだった。



「来年、また来ようか」


「えぇ……」



次の約束を交わし、ふたりはふたたび空へと目を向けた。



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