君のところへあと少し。

8

バイオリンを始めたのは3歳の時。

1日も欠かさず練習してきた。
これを生業に出来ることは幸せでしかなかった。

辞める日が来るとは思わなかった。

辞めなければ日和との将来がなかった。
日和とバイオリンを天秤にかけたら、無くしたくないのは日和だった。

既成事実を作ってしまえば、仕事でうちに戻るだけで済む。
無意味な縁談も話は消える。

日和に話せばバイオリンをやめるな、というだろう。

だから話さなかった。

なによりも、奏には日和しかいなかった。

「彼女がいるらしいな。青果店の娘さんだったか?」

社長室で威圧感満載の男。
父だが、あまりコミュニケーションをとらなかったせいか、他人に思える。

「調べはついてるんでしょう。そうですよ。彼女とは結婚の約束もしてます。あぁ、もしかしたら、お腹に赤ちゃんがいるかもしれない。」

愛し合って出来た赤ちゃんが。
あんたみたいに、愛のないオンナに産ませた俺なんかより、絶対に幸せになれる子が。


「バイオリニストとしてではなく、跡取りとしてヤマトに戻って来い。
会社に入るなら彼女はお前の妻として認めよう。
この前三浦くんにも会ったが、どうやら相変わらずなんだな、お前は。」

「父さんとかわりません。好きなものを生業にして、好きなオンナと一緒にいる。マンションは自分の稼ぎで買ったし、苦労はあっても幸せにしてます。」

嫌味を最大限詰め込んで御返しする。

「じゃあ、結婚式はヤマトに恥じないものにしなければ。跡取り息子の結婚式が貧相では困る。相手の親御さんにも会わなければな。」


そうきたか。
望んじゃいない。
分相応で構わない。

「式はしません。彼女が妊娠していたら、なおのこと出来ません。これは僕がヤマトに戻る条件のひとつです。
あなたは自分の体裁のために式を盛大にしろという。僕も彼女もそれは望まない。以上です。バイオリンは捨てます。これで気は済みましたか?」


「仕方ない、その時また考えよう。では、10月から、本社に勤務してもらうからそのつもりで。あぁ、誓いうちに彼女を連れてうちに帰りなさい。」


命令なんか糞食らえだ。


「失礼します。」



あの男の血がながれていると思うだけで虫唾が走る。

日和、お前の顔が見たい。

お前を抱きしめたい。

日和、俺の大切な大切なオンナ。


スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、颯爽と歩く奏。

社内の女性が振り返る、その姿。

だが、振り向いて欲しいのはただ1人。

(日和、ちゃんと話すから。だから不安に思うな。俺の子供、産んでくれよ。)


願わずにはいられない。






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