もう一度愛を聴かせて…
   ◇


気が付いたら、わたしはA市にある橘さんのマンションの前にいた。


何度か遊びに来て……管理人さんに会ったときは『妹です』と嘘をついたことを思い出す。

橘さんの実家は東京だ。父親も警察官僚だとか。そういえば、『橘はじきに東京に帰ってエリートコースに乗る奴だから……』お父さんがそんなことを言ってたような気もする。


辺りはもう真っ暗だ。時計も携帯もないので時間はわからない。駐車場を見ると、彼の車は止まってなかった。

わたしはマンションの横にある花壇のブロックに座り込んた。

ふと足を見ると、K大学病院と書かれたスリッパを履いている。そうか、病院から逃げてきたんだ、とあらためて思った。

どうしてここに来たのかわからない、これからどうするのかも。ここに来るまでに、電車に飛び込もうか、それともビルから飛び降りようかって考えた。

でも、わたしが死んだらこの子も死んでしまう。

周りの全員が『早く死なせよう』って必死なのに……。それでもこの子は生きている。きっと、生きたいと望んでいるんだ。


勇気が欲しかった。

未婚の母だと言われてもかまわない。家を出たとしても、何か道があるはずだ。たとえ借金を背負ったとしても、わたしを母親に選んでくれた、この子の命を守りたい。


そのためには、橘さんに『愛してる』って言って欲しい。

もう一度だけ、『愛してる』って。何がなんでも、言ってもらうんだ! 


彼がもし、『迷惑だ、堕ろしてくれ』って言ったら、お父さんに全部話すと言って脅してやろう。

『愛してる、産んでいい』って言ってくれたら、彼の名前は決して言わない。


無理に言わせるのは卑怯かもしれないけど……最初に卑怯なことをしたのは橘さんなんだから、お互い様だ。


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