もう一度愛を聴かせて…
しばらくの間、わたしは庭から家に入ることができなかった。

まだ近くにいたら? もし、出て行くフリをして隠れていたら? そう思うと怖くてどうしようもない。

道路の向こうに市村さんの姿を確認した直後、わたしは家に飛び込み、家中の鍵をかけた。

ホッとして……その途端、涙が溢れてきて、わたしは橘さんのことを思い出したのだ。


市村さんは、わたしと橘さんが深い関係であるみたいなことを言っていた。

たしかに、橘さんはわたしより七歳も年上だ。それに、雨に降られて仕方なくラブホテルで休憩したこともあった。

でも、最後の一線だけは越えていない。


どうしてあんないやらしい言葉を投げつけられて、キスとか、それ以上のことまでされなきゃならないの?


悔しい……でも、橘さんには知られたくない。

無理矢理だったけど、そうじゃないって思われるかもしれない。好きな人には、どうしても知られたくなかった。


そして、わたしは慌ててバスルームに飛び込んだ。

洗面台の鏡には、無残な自分の姿が映っていた。

髪はぐしゃぐしゃで、お気に入りのシャツは胸元が引き裂かれ、ボタンもない。ジーンズのファスナーは下がったままだし、唇には血の跡がある。

大急ぎで全部脱ぎ捨て、ありったけのボディソープで体中を洗った。唇も擦り切れるくらい擦って、何度も歯を磨いた。

わたしは、身体を洗うことに必死で、しばらく気づかなかったのだ。玄関ベルが何度も鳴って、すごい勢いでノックされていることに。


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