若と千代と通訳



(これは、やばい……)
一時は脱したと安心していた貞操の危機である。
ぐっとのしかかってくるような明から逃れるように千代は顔を反らそうとしたが、明の指がそれを許さなかった。シルバーのごつい指輪が刺さって、やっぱり痛い。
「明さんいつからそんな趣味になったんすかー」
周囲がからかうような調子で言うが、明は黙ったまま千代を見つめている。
これはますますやばいのではないか。
「明さん!」
やばいと思ったら、口が勝手に喋っていた。
「……ん?なあに、千代ちゃん」
心なしか明の声の調子が甘い。明らかに千代の心を陥落させにかかっている。
「あ、あの、あの、ヤクザ……お、臣さんが、ヤクザって、本当?」
混乱したまま己の本能に任せた発言の後に、千代は後悔した。
まずかったかもしれない。臣がヤクザと知らないとは、どう考えても千代と臣は無関係だといっているようなものだ。臣との繋がりがあるからここにいるわけだが、逆を言えば、臣の女だからこそ、千代は今無事でいる。
千代の後悔を裏打ちするように、明の眼が点になった。糸目も驚くと面積を増やすらしい。いや、同面積で形状を変えたのか。
「なあに今更とぼけてんだよ。お前を囲ってる男がこの辺一番の――ぐえっ」
明がなにか口にする前に、例のセクハラ男がべらべらと話しだした。しかしそれも続かず、見れば、セクハラ男の腹に明の肘がめり込んでいる。
「……千代ちゃん、まじで言ってんの?」
明の声のトーンが下がった。千代は音楽が苦手なので何段階下がったが知らないが、確実に下がったのだけはわかった。
千代は顔面蒼白のまま、大真面目にこくりと頷いた。
(……わたし、終わったかもしれない)
明がどう出るか。それで千代の処遇は決まる。
最悪、この場の男達に輪姦されて口封じに殺されて埋められるか沈められるか。いや、散々弄んだ後は風俗に売られるかもしれない。
「ふふっ」
恐ろしい想像に想像を重ねて、唇すら真っ青になった千代に、明の吐息がふわりとかかった。
「あはっ、あははははははははっ」
肩を激しく揺らして、明は笑っていた。
千代の肩に顔を埋めるように体を折ると、腹を抱えて大笑いしている。
「……ちょっと千代ちゃん、まじでぇ?」
げらげらと笑う明に、千代どころか他の誰一人ついていけなかった。
突然おかしそうに笑い出した明に、仲間達も驚いたような表情を浮かべている。
「そっかあ、千代ちゃんはまじもんの、臣のクソヤローのアキレス腱だったんだね」
明がふっと体を起こした。
笑いすぎて零れた涙を拭い、千代に再び向かい合う。
今までのどの場面より冷ややかな眼差しに見つめられ、千代の背筋に悪寒が走った。
そんな千代の眼をじっと見つめて、明は笑う。
「そうだよう、千代ちゃん。君が知ってる臣くんは、このあたり一帯を昔からしきってる近藤組の、いけすかないイヌなんだよ。穏やかな気質の近藤組がいざ血で血を洗う抗争始めるってときに必ず先頭に立って、敵対勢力の仏さんやまほどこさえる、こわーいヤクザなんだよ」
言われて、実感など湧く筈もなかったが、千代は納得してしまった。
(あの見事なヤクザキックは、本職の方だったからなんですね)
本当は、薄々気付いていたところもある。
いつも暗い色のスーツにコート、堅気とは到底思えない強力な眼力、整えられたオールバック、路地裏の喧嘩、ヤクザキック……。
「ついこの前もさあ、俺らの仲間がやられちゃってね。……実はそん時、俺らとすれ違ってんだけど、覚えてないかな、千代ちゃん」
え、わたし?
いきなり振られた話に、千代は状況も忘れて目を丸くした。
「ほら、あのきったない路地裏でさ。こんなとこ女が歩いてんの珍しいなーって見てたんだよ、俺」
言われて、そういえばあの日、数人の男達とすれ違ったのを思い出した。他に誰もいなかったため、すれ違ったこと自体は覚えている。しかし、あんな一瞬で顔なんか覚えてもいない。
「俺、ヒトの顔覚えんの得意なんだ」
明は誇らしげに言ったが、千代は納得いかなかった。いくら記憶力がいいとはいえ、なんの感慨もなく一瞬すれ違っただけの、しかも赤の他人の顔を、果たして覚えているものだろうか。たまたまならあるのかもしれない。そしてたとえ可能だとしても、瞬間記憶能力とか、そのへんの話になるんじゃないのか。
「……まさか、その頃から」
千代は思わず、口に出してしまっていた。
その頃から目をつけられていたとしたら、すれ違った千代を認識していたことにも頷ける。
「あ、気付いちゃった?あの頃には既に、あんたが臣の弱点かもしれないって仲間から連絡はいってたからさ。まさか臣を襲うように指示した帰りに出喰わすとは思わなかったけど」
けらけらと、明の眼が細められる。
千代は、ざっと全身に冷水を浴びせられたような気分になった。
――あの日から、既に三週間近く経っている。
(その間、泳がせて、見張ってた……)
それはあまりに計画的ではないか。
「臣さんを、どうする気なの」
気付けば、千代はまた無意識に口を開いていた。もっと自粛しないと自分の立場を悪くするだけだというのに、千代は明の目を真っ直ぐに見て、尋ねていた。
「ころす」
明から返ってきた答えは簡潔だった。
「近藤組組長が九代目のときにさ、ちょっとした騒ぎが起きて、俺の兄貴、それに巻き込まれて死んじゃったんだよね。俺、ブラコンだったからさあ、墓の前でわんわん泣いてさ。そしたらそん時裏で手引いてた梅沢連合のおっさんが親切にも墓参りきてくれて、教えてくれたわけよ」
明の手が、ぬるりと粘着質な効果音とともに千代に伸ばされた。
「お前の兄貴殺したの、近藤組の臣って男だぞ、ってね」

――パンッパンッパン。

乾いた音が千代の耳に届いた。
それがなんの音かなんて、この状況で悩む余地もない。
千代の体が明によって勢いよく引きずり落とされ、床に転がされる。コンクリートで擦った頬が熱い、痛い。
「おいこら、見張りどうした」
明が周囲の仲間達を見渡す。
さきほどの愉快な空気はどこかに消え去り、数人は怖気づいたかのように青ざめていた。明がジャケットの内側から、テレビでよく見るような拳銃を取り出す。
冬に冷え切った空間に緊迫した空気が走り、囚われの身である千代の体が硬直した。
その間も銃声は響く。
ここが何階の部屋なのかもわからないが、音は下から徐々に近付いてきているようだった。
無表情コンビが、閉じられた扉の前に立つ。待ち伏せする気か。
(……待ってよ、誰がきたの?)
この状況は、明らかによくない。
千代の救助なのか、はたまた違う線からの敵襲なのか判断がつかなかった。
パンパンと鳴り響く拳銃の音に、ただ身を竦ませるしかない。
音が近付いてくる。
悲鳴、銃声、逃げるような足音、銃声、悲鳴、――音が消えた。

――ドッ。

しんと辺りが静まった瞬間に、凄まじい衝撃音が室内に響いた。
スチール製のドアが吹っ飛んだかと思えば、その前に待機していた無表情コンビも吹っ飛んだ。
パンッパンッパン――三発。
ドアを突き破られた衝撃に構える前に、部屋にいた男が三人、呻きながら倒れた。
廊下は真っ暗だった。
数人の呻き声を背負って、厚みのある影が室内の蛍光灯に照らされて、脚だけ見えている。
黒いスラックス、黒い革靴。
「……よお」
床に転がされた千代の体を抑えるように踏みつけて、明が硬い声を出す。
す、と室内に入ってきたのは、呼吸ひとつ乱れていない臣だった。
呼吸は乱れていないのに、前髪が振り乱れている。左手で構えられた拳銃は、黒のスーツと同化しそうなほど黒かった。

「お、おみ、さ……」
千代は思わず、顔を上げてその名を口にした。
その声に反応すらせず、臣はただじっと室内を見据えている。
(……あれ、助けにきてくれたんじゃないのかな)
目をあわせて笑ってほしいわけではなかったが、こちらに見向きもしない臣の様子に、千代の心臓がぎゅうと引き絞られた。
いたい。
「千代嬢」
思い切り傷付いてしまった顔の千代に、臣の背後から声がかけられる。
「……志摩さん」
現れたロマンスグレーは、こんな状況であってもロマンスグレーだった。いつもの芥子色のスリーピースにロングコート、今日はカーマインのマフラーをきっちりと巻いていた。
その手にも、臣のものより細身の拳銃が握られている。
「話はあとで。さっさとゴミ片付けて、あったかいラーメンでも食いにいきやしょうや」
志摩の目尻に刻まれた皺が、笑みと共に深くなる。
えもいわれぬ色気を醸し出した志摩に、千代は絶対的な安心感をもらって、素直に頷いていた。
「さてと、お前が鬼眼羅の明かい」
志摩が臣の横に並ぶ。
明に銃を向けられていながらも、落ち着き払っていた。
「あんたが噂の腰ぎんちゃくかよ。こんなジジイだとは思わなかったなあ」
明は明で、銃を構えながら笑っていた。
兄の仇を前にして、興奮が抑えられないというように。
室内にたむろしていた男が三人撃たれ、ドアと共に吹っ飛んだ無表情コンビは当たり所が悪かったのか気を失っている。残るは明と、あのセクハラ男一人だ。
「うわ、うわ、まじで」
しかしセクハラ男は、撃たれて流血している三人に釘づけになっている。小柄な体が、がたがたと震えていた。
誘拐程度の犯罪には慣れているが、流血沙汰は不慣れなのだろうか。
「ほんとに助けにくるとはねえ……。一種の賭けみたいなもんだったんだけど」
そんな仲間の様子にも頓着せず、明は臣をただ見ている。
臣も、なんの感情も移さない目でそれを見返していた。
「千代ちゃんがそんなに大事かあ。……だったら、千代ちゃん殺せばあんたもわかってくれる?」
そう明が言った瞬間、千代の腹部に強烈な衝撃が走った。
「千代嬢!」
志摩の怒鳴りつけるような声が聞こえるが、縛られたまま床を転がった千代はそれに応える余裕もなかった。
思い切り蹴り飛ばされた腹部から、気持ち悪いなにかが勢いよく這い上がってくる。
「ッう、ぐ」
痛みと不快さに追い立てられるように嘔吐した。蹴られた表面的な痛みと、内部への衝撃で何度か咳き込んで胃の中を外に吐き出す。ほとんどものを食べていないつもりだったが、それでも胃液と共に吐瀉物はコンクリートの床に広がった。
(臣さんの前で、まさかのゲロ……)
好きな人の前で腹を蹴られて嘔吐するなどどんなシチュエーションか。
千代は乙女心をしっかりと傷付けられた。
せめて汚れた口周りだけでも拭いたいのに、それすらできないのが益々恥ずかしい。
(……蹴られた恐怖心よりゲロのほうが気になるって、私も図太いな)
それは臣がそこにいるからに他ならないのだが。

「おいおい、怒んなよ。一発食らわせただけだろ」
明がけらけらと笑う。しかしその笑い声には、どこか虚勢が混じっているようだった。
不思議に思い、ぼんやりと霞む頭を持ち上げると、恐ろしいものと目が合った。
(あ、臣さん……こっち見てる)
意識朦朧としていてよかった。
閻魔大王もかくやという形相が、千代をじっと見つめていた。
(心配してくれてんのかな……。ていうかゲロまみれの私を見ないでほしい……)
真っ黒な瞳が、じっと千代に注がれている。
それがなにを訴えているのかわからなかったが、それでもなんとか応えたくて、千代は小さく口角を上げた。
うまく笑えただろうか。
千代が力尽きて頭を床に伏せると、臣も視線を外したのを肌で感じた。
(伝わったかな)
なんとか吐瀉物を避けた位置に寝そべりながら、千代はまだ続く腹部の痛みに耐える。
(……私は大丈夫だよ、臣さん)
だから早く終わらせて、ラーメン食べに行こうよ。

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