若と千代と通訳


ジャリ……。

臣が一歩、脚を踏み出した。
拳銃は既に構えていない。
手に持ってはいるが、ぶらりと脇に降ろして明に向かって歩いてくる。
千代は床からそれを見上げていたが、臣は黒のコートとは別に、異様なオーラを纏っているようだった。
静かで、落ち着いていて、でも凶悪で、残忍な。
――パンッパンッパン。
明がうろたえたように引き金を引いたが、三発とも外れた。
臣は発砲されたことすら気にも留めず、歩調すら変えない。
「……ってめえ」
余裕の臣に、明の狐面が歪んだ。

――パンッパンッ。

一発は外れたが、一発は臣の胸に食い込んだ。
衝撃に多少体をふらつかせたが、臣は倒れなかった。血も出ていない。
「臣さん……!」
それでも千代は悲鳴を上げずにはいられなかった。
その声に、すぐ間近まできていた臣が反応する。
「……」
千代を流し見た口許には、穏やかとすらいえる笑みが乗せられていた。
「コルト・パイソンか。あと一発だな」
意識を取り戻しかけた無表情のひとりの顔面を蹴り上げて再び眠らせていた志摩が、明に言い聞かせるように言った。
「おまえよぉ、それ、誰に握らされた?」
どこか憐れみを持った声が、明の背筋を逆撫でする。
「ジジイには関係ねえだろ!」
もはや明は冷静さを失っていた。
激情して、床に転がっている千代に銃口を向ける。
鈍く光る小さな口に見据えられ、千代は愕然とする。
(――撃たれる……!)
しかし、ごっ、と骨を打つ音が響いたかと思うと、明の痩身が窓際まで吹き飛んだ。
痛みに呻く明を、怯え切った表情でセクハラ男が見ている。
千代の視界に、明を殴り飛ばした臣が映っていた。
「半グレのガキが、こんな真似してただで済むと思ってんのか」
単調で落ち着いた声が、低く地を這った。
感情の一切をそぎ落としたような声を、千代は初めて聞いたかもしれない。
(……臣さんの、声)
こんなときだというのに、低音の耳障りの良さにぎゅうと心臓を鷲掴みにされた。
「鬼眼羅のリーダーを襲名してから派手に動いてたのも、近藤組の臣を狙った私怨かい。梅沢連合もふざけた真似しやがるなあ」
志摩が怯えるセクハラ男を一瞥しながら言った。
臣は、床に伏した明を見つめている。
「……っざ、けんなよ」
明が呻きながら、血を吐くような声で吐き捨てた。
「兄貴は一般人だったんだよ!おまえらみたいな社会のクズなんかとは無縁の、無害な一般人だったんだ!」
殴られた右頬は赤く腫れ、唇からは血が滲んでいる。
視線で臣を殺そうとするかのように、細い目を大きく見開いていた。
「おまえらのくだらねえ抗争に巻き込まれて死んだ兄貴に、泣いて詫びろや!」
勢いよく立ち上がった明の拳が、臣を狙う。
臣はそれを左手であっさりと受け止めると、手首を握り返してぎりぎりと絞め上げた。
「……お前がしてんのは、もっと卑怯だろうが」
志摩が臣の考えを代弁するように口を開いた。
「ヤクザの女っつったってなあ、そこらへんにいるか弱い女とかわんねーんだよ。それを盾にとって、挙句無抵抗な女の腹蹴り上げるたあ何事だ?女の腹は男の腹の何倍も繊細なんだよ、てめえもいつか父親になるんだ、覚えとけクソガキ」
嗅ぎなれた臭いがしたかと思えば、志摩は説教を垂れながら煙草に火をつけていた。
冷え切った空気に滲むような、ピースのにおい。
「ま、どうせ梅沢連合の馬鹿共によいしょされたんだろうけどな。ヤクザ相手にする初心者に六発しか撃てねえパイソンとか鬼畜だろ。腕がねえならせめて弾数くらいかせげや」
殴られたときに明の手から離れた拳銃を拾い上げて、志摩は肩を竦めた。
「捨て駒にされたんだよ。気付いてたか?」
その問いに、明は答えなかった。
完全に戦意喪失している明に見切りをつけて、臣は引き返した。
臣の巨体がこちらに向かっていることに気付いた千代が、ざっと蒼白になる。
「……こないで!」
震える唇から飛び出た言葉に、臣は魔法にかかったかのように硬直した。
心なしか、顔色が悪い。
「千代嬢、混乱してるのはわかるが、若は嬢を助けるために」
志摩が苦りきった顔で千代と若の間に割って入る。
しかし千代は、くわっと表情を険しくして叫んだ。
「ちがう!臭いから!……吐いて汚いから、こないでください!」
笑われてもいい。乙女千代にとって、身体の解放より大切なことであった。
千代の心底からの訴えに、何故か意気消沈していた明が噴き出してげらげら笑い出した。
おいこら、元はといえばお前のせいだろうが。
との意味を込めて、げらげら遠慮なく笑っている明を千代は睨みつける。
しかしその視界も、すぐに真っ黒のなにかに覆い尽くされてしまった。
「……臣さん、わたし、くさいよ」
太く長い腕に抱え込まれて、千代は俯いた。
汚れた口許だけは上等なスーツにつけまいと気をつけていたが、力強い力を前にそれも徒労に終わる。
ピースよりずっと馴染み深い、しかし鼓動を速くさせるセブンスターの香りに、千代はひっくとしゃくりを上げた。
「……」
臣は、こんなときでもなにも言わなかった。
ただ黙って、千代の震える体を抱き締めていた。

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