若と千代と通訳


「デートの終わりにほかのオトコに送らせるなんてデリカシーなさすぎ」
「オミさんのオシゴト考えると、仕方ないかなあ」
カレン、アビゲールの意見は見事に割れた。
クリスマスリベンジ以来、臣とは会っていない。
正月も間近に迫り、実家からはそろそろ規制しろとのお達しである。
実家に帰ると、臣にはまず会えないだろう。そうなる前に、このもやもやをどうにかしたかった。
(いつまでもぐずぐずするなってのは解ってるけど、でも、臣さんが私のこと、本当に好きでいてくれるのか、ちゃんと知りたい)
言葉も行動ももらった。
でも、未だに会話がまともに成り立たないのは何故なのだろうか。
志摩は、臣がなにを言うでもなく、その心情を理解しているというのに。
(おのれ志摩さん……まさかあなたがライバルになろうとは……)
あの麗しのロマンスグレーを思い浮かべて、千代は小さく溜め息を吐いた。
こうして本人抜きに悩んでいること自体不毛だ。
(なら私が、志摩さんなみに臣エスパーになればいいんだ)
きっと簡単にはいくまい。時間もかかるだろうし、その時間を持続させる努力も必要だ。
(……いいじゃん、目標があれば、それに向かって頑張っていける)
大好きな祖父もよく言っていた。
お前が望めば、そのための努力を惜しまなければ、叶わぬものはないと。
(志摩さん並みの通訳になって、私なしじゃいられなくしてやろう)
あの大きな体と心が手に入るなら、いくらでも頑張れる気がする。
初めて出会ったときの、あの真摯な眼差しを、手に入れられるなら。

「夕飯の買いだしいってくる……」
千代はこたつから這い出ると、顔面パック中のカレンとアビゲールに顔を向けた。
きらきらと輝く瞳が、千代を心配そうに見ている。
「あんまりチヨが元気ないと、わたしたちもツマンナイヨ。ビール買ってきて」
「ゲンキだして。あとタケノコノ里食べたい」
ふたりの励ましに、じーんと胸を痺れさせられた千代であった。
が、その感動もすぐさま冬の風に吹かれて飛んでいった。
「……お、みさん」
玄関を開けると、臣が立っていた。
顎をぐんと上げないと見えない長身が、やや息を切らせて千代を見下ろしている。
はあはあと珍しく荒い背を吐く唇に、千代の視線が勝手に吸い寄せられた。
背伸びしてもキスできない、届かない、唇の位置。
あの唇に触れたのが、随分と前のように思える。
実際にはまだ、一ヶ月も経っていないくせに。
「あいたかった」
気付いたら、そんなことを口走っていた。
震える唇から零れ出た千代の心からの言葉に、臣の心臓が粉々に砕け散る。
玄関先だということも忘れて、臣の手が千代の体に伸びた。
森の熊さんに抱き締められた真珠のピアスをしていないお姫様が、熊をぎゅうと抱き締め返す。
臣のスーツから香るセブンスターの香りが、千代の心の奥底を擽って、じわりと撫でた。

「…………でかけるのか」
たっぷりと沈黙と抱擁を済ませ、臣が口を開いた。
「ごはんの買い物……」
それでも離れがたい千代は、もう少し、と懇願を込めて臣のネクタイに擦り寄る。
その時の千代の顔があまりにも切なげで嬉しげで、臣は六十の煩悩ダメージを食らった。
「…………付き合う」
臣の低い声に、千代がぱっと顔を上げる。
「仕事は?」
「今日はない」
というか、しない。という強い意志をもって、臣は応えた。実際、立て込んだ仕事は終えている。年末年始はのんびり過ごす。これが近藤組の昔からの掟であった。
「臣さんと買い物デート」
その時の千代の顔といったら(以下略)。

とはいえ、買い物に行くとゆっくり話をする時間もないので、スーパーの横に隣接している公園のベンチに落ち着くことになった。寒いが、店に入ると臣の容姿は無駄に悪目立ちしてしまうので仕方がない。
ホットのコーヒーとココアを手に、千代と臣は寄り添うようにベンチに座った。
夕時。木枯らし吹く緑地公園には、たまに通行人が通るくらいで人は少ない。
かさかさと風に吹かれた枯葉が、千代と臣の足元を浚う。
「……あの」
「この前は」
それを見つめながら、ふたりは同時に口を開いた。
そのまま先に口を開くこともできず、沈黙が落ちる。
出鼻をくじかれた千代が黙っていると、隣の臣から小さな溜め息が聞こえた。
「…………帰り際、志摩たちに任せきりにしてすまない」
小さな声だったが、はっきりと聞こえた。
低い声が千代の鼓膜と心臓を同時に震わせて、じわりと頬を赤くさせる。
「……ろくに説明もなしに、無神経だったと」
まさか義姉に叱られたとは言えない。臣は中途半端なところで口を噤んで、千代の反応を待つ。
こちらを見ないようにしている、どこか固い横顔を、千代は遠慮なく見上げた。
臣の右側に座っているから、今は左眉の傷は見えない。
「……あのね」
千代の声に、臣が顔を上げた。
「私、ずっと臣さんの声が聞いてみたかったの」
続いた千代の言葉に、臣は向けようとしていた顔の動きをとめた。そのまま、先ほどと同じように、目の前をただ見据えている。
「でも、付き合ったからって、すぐに声が聞けるようになるだろうななんて、そんな都合のいいこと、考えてないよ」
本当は、ちょっとは期待しないでもなかったけど。
「……そりゃ、ちょっとは不安になるけど。話すことが苦手なら、無理に話してもらわなくていいんです。私、無口な臣さんも好きだから」
臣の顔の筋肉がぴくりと動いて、やっと千代を見た。
真っ黒な瞳の、あまり眼つきがいいとはいえない眼差しが、千代を見つめる。
(余所見しないで見ててくれるなら、それでいいの)
「……今はまだ無理でも、いつか、志摩さん並みの通訳になって、臣さんの音のない言葉を聞くよ」
言い切ったとたん、千代は前歯に衝撃を感じた。
目の前の臣の顔が翳って、随分と近いことを知る。
(あ、キスだ)
少しかさついた唇が、千代の唇を覆って暖めている。
座っていても相当ある高低差を埋めるように曲げられた臣の背中が、いとしかった。
触れるだけの、優しいキスは、臣の本質だ。
強引に接することもあれば、こうして踏み込むことを躊躇するように躊躇いがちだったりする。
(もっと、知りたい。臣さん、あなたのこと)
臣は暫く物足りなさげに下唇を噛んだりしていたが、やがて触れるだけでやめて、離れた。
ふたりの間にできた距離が、互いを鮮明にさせる。
見つめあっていると、皮膚を刺す木枯らしすら感じられないくらい、熱くなってくる。
「少し、長くかかるが」
臣が、千代の短い髪に指を絡めながら、言った。
「俺の話を、聞いてくれるか」
千代の答えなど、はじめから決まっている。

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