涙を拭いて

「泣き部屋」

……そうよ、私は知っているわ。あなたがいつもそばにいてくれたということ。


静かな小さい部屋に、ありきたりの文句を並べた流行の歌がかすかに響く。その歌は、受付をしている僕の視界にぎりぎり入ってくる引き戸の向こうから流れてきた。テレビがつけっぱなしになっているらしい。僕は携帯音楽プレーヤーでマーラーを聴いていたが、そのかすかな歌声がどうにも耳に障って、舌を鳴らした。


(誰が歌っているんだっけ?まあ、どうでもいいや)


僕は再び、読みかけのカウンセリングルーム・マニュアルに目を落とした。


ここは、ボランティアの学生たちによって運営されている。もちろん、臨床心理士といった専門家ではないから、話を聞くことはできないが、将来カウンセラーを目指す学生のサークル活動、といった位置付けのようだ。話を聞くことができないなら、何をするのか、というと、普段は感情を心の奥深くにしまって泣くことのできない人々に、泣くための部屋、通称「泣き部屋」を提供し、泣く人々をただそっと見守るのだという。


「泣き部屋」には、涙を誘うような様々なツールが常備され、どれでも自由に使用できる。視覚から入りたい人には、感動名作のDVDや絵本。歌で泣きたい人には、失恋ソングや演歌を収録したCD。他にも、人物や風景を写した写真集や、誰かが使っていたと思われる古いおもちゃ、ぬいぐるみ、ふかふかの毛布に枕、郷愁を誘うお香を焚く香炉なども置いてある。もちろん、危険物以外は自分が泣くきっかけになるものを持ち込んでもかまわない。そのときは、受付で申請してもらう。


こうした部屋の需要は案外多くて、最初は学生向けに運営されていたのだが、だんだんと一般の人向けにも開放されるようになった、と書いてある。利用者は、若い女性が多いという。そしてこの情報もまた、和田先輩から聞きつけ、受付のバイトを今日の昼間だけ承諾した理由でもある。


(失恋した若い女の子が来てくれて、僕に慰めてもらいたい、とか言ってくれたらいいな)


そんな不純な理由を胸に秘めて、僕はマーラーを聴いていた。
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