仄甘い感情
2
尚嗣の作戦通り、絢女は契約書にサインした。
週末に絢女の父を前島総合病院に転院させた。
すぐに検査をし、まだ手術が可能である事がわかり、一週間後に施術が決まった。
執刀するのは世界的にも有名な内科医だ。
尚嗣から直接依頼され、何とか都合を付けてくれたのだ。


そして絢女の社長付きとしての仕事も契約翌日から始まった――。



「秘書の長谷部です。社長から訊きましたよ、クビ切りジャックだのクビ切り魔だの…実にいい発想です」
「…はぁ」
「神崎さんくらい、社長に物が言える人でもないと、社長付きは務まりません。形としては秘書になりますから、ある程度は僕と仕事を共有して頂きます」
「はい…でも私に秘書の仕事が出来るとは思えないんですけど…」
「心配いりませんよ。うちの傲慢社長はカフェインとニコチンさえ与えておけば虎の子のようにおとなしいですから」
「…おとなしくて虎の子ですか?」
「ちなみに最凶時では傲慢クビ切り大魔王です。決め台詞は『今日付けで辞令を出す』と『クビだ』です」

長谷部は尚嗣の従兄弟であり、幼馴染でもある。
尚嗣を窘められる貴重な存在として、社内外で重宝される逸材だ。

この日は尚嗣の仕事についてと、これから絢女がこなす事になる業務についての説明に終わった。
説明を受けながら、絢女は何度もコーヒーを淹れさせられた。
勿論、絢女の自宅で飲んだものと同じものを。
更に長谷部の話では、ミスカフェやラッテのアレンジも気に入ったらしく、その為にわざわざ出向いたらしい。

「傲慢社長の事ですから失礼な言動があったでしょう?」
「ぁ…でも…思った程悪い人では…ない気がしました…」

絢女がふいに思い出したのは弟妹に笑いかける尚嗣だ。
驚くほどに自然に笑みを向けている尚嗣に、絢女が少し考えを改めさせられた程だ。

「何故です?」
「うちの弟と妹を沖縄の保養所に招待してくれたんです」
「…沖縄に?」
「はい、来週の火曜から三日で」
「…三日ですか…」

長谷部は手帳片手に、逆の手を顎の下にやりながら何かを考えている。

「ちょうどいいですね、そろそろお休みが必要でしたから、好きに使って下さい。経済的な余裕だけはありますから」
「好きにって…」
「甲斐性は一切ありませんからね、うちの傲慢社長には」

容赦ない長谷部の言葉に絢女は苦笑い。
付き合いが長いらしく、親族でもあるとは聞いたが、別段興味があるわけでもなく。


「神崎さんはこれを使って下さい」
「…手帳?」
「これは僕からのプレゼントです。これからの仕事に役立てて下さい」

長谷部からもらったのはヴィトンの王道、モノグラム柄の手帳だった。

「赤外線、ありますか?連絡先を交換しておきましょう」
「あ、はい」

お互いに赤外線ポートを近付けて、プロフィールを送受信し合う。

「神崎さんの名刺も発注しておかなければなりませんね」
「名刺?」
「そうですよ。神崎さんは僕と対を成す、社長秘書のパートナーですから。これからは恋人の事よりも社長を知ってもらわねばなりません」
「あ、はい」

そんな相手はいないんだけど…と思いながらも、長谷部を見上げて素直に返事をしてみせる。

「じゃあ今からは当社…前島商事とそのグループの事業展開について、説明させて頂きます」

長谷部の講義は分かりやすいものだった。
メモを取りながら、事業内容や得意先について、最近の取引などを教えられた。
長谷部曰く、絢女はよく機転が利く。
出勤二日目にして、尚嗣が言うより早く気付き、動く。
根っからの秘書気質ではないかとすら思えたらしい。
元々、事務仕事や補佐的な業務を得意とする絢女は、まさに秘書が天職だと言える。

「お待たせしました」
「…あぁ」

尚嗣は書類に目を通しながらも、長谷部と肩を並べて話をしている絢女を何度も盗み見ていた。
時折、小さく笑ったりしているからだ。

長谷部にプレゼントされた手帳には、持参したメモに書いた事をまとめてから清書している。

「さて…こんなところですね。神崎さんは覚えがいいから助かります」
「長谷部さんがわかりやすく説明して下さるからですよ」

そんな会話に尚嗣が不機嫌面しているのを、長谷部は見逃さない。
自分が引っ張ってきた絢女が、自分よりも長谷部に懐いているように見えるのが気に入らない…と言ったところだろう。

「ところで神崎さん?我々秘書の制服はスーツなんですが、何着お持ちですか?」
「三着です」
「せめて日替わりに出来るくらいは持っていた方がいいでしょうね」
「わかりました。これから少しずつ揃えます」
「経費で落としますから心配いりませんよ。社長行きつけのブティックがありますから、そちらへ行きましょう。社長が見立ててくれるでしょうから」

長谷部は尚嗣に向き直ると意味ありげな笑顔を向けた。

「お忙しいなら僕が行きましょうか?」

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