美しい月
実物は鮮烈だった。
昨日とは違い、隙のないシンプルなグレーのスーツスタイル。白いシャツの首元には華奢なネックレスの鎖が見え、ピアスは華美でない小さな石のもの。目元は淡いグリーンで飾られ、唇はオレンジ系のルージュに彩られている。常務が脱いだスーツの上着を受け取る姿に、密かに苛立ちを覚える程度には執着し始めていた。
この時点でまともに交わしたのは、自己紹介だけだ。
『では両殿下、どうぞ』
テーブルに並ぶコース料理は色とりどりの食材が様々に調理され、一枚の皿の上の芸術作品のようだ。二人の秘書は所作にも全く問題がなく、さすがと言えた。
『サイード殿下、お酌させて頂けますか?』
すっと席を立った美月がサイードの隣に周り込み、膝を付いた。
『…頼む』
『失礼致します』
日本酒が気に入ったサイードに、美月が酌を進み出れば、陽菜はアズィールに酌をしていた。
『…君は飲まないのか』
『お気遣いありがとうございます。ですが本日は運転がありますので』
『代行させればいい』
『車は四人しか乗れませんし、まだ勤務時間中ですので…』
『真面目だな…日本人が勤勉だと言う話は本当のようだ』
呆れたようなサイードの言葉に、美月は愛想笑いして見せた。
『では俺もこれ以上は遠慮するか』
『殿下はせっかくですので、お召し上がり下さい』
サイードは美月と同じくクイーンズの発音だ。互いに耳障りはよいと感じていた。
『ミズクレハラ、君は普段から飲めないのか?』
『いえ、嗜む程度には』
『では、勤務時間外に車の運転の心配さえなければ飲むのか』
『そうですね。同僚や友人と行く事もありますし、自宅で飲む事もあります』
美月は問えば答えた。そのせいか酒も食事もよく進み、アズィールが驚くほどの上機嫌だった。
『実に楽しいランチだった、ミスターヤマグチ』
『こちらこそ』
陽菜が美月に車のキーを手渡す。
「美月」
「ん、切ってくる」
「了解」
美月は会計を済ませる為、席を外した。
『ミツキ、とは?』
『クレハラの名前です。意味は美しい月、ですね』
陽菜が答えてやると、サイードはその名を呟いた。戻った美月は注目を集めた事にキョトンとしていた。
『あの…何かありましたでしょうか?』
『サイード殿下が美月の名前の響きが珍しかったそうなの』
『私、ですか』
『美しい響きだ』
またキョトンとした美月は、思わずサイードを凝視していた。
『美月』
『…ぁ…大変失礼致しました』
『いや…そんなに見つめられるのは望むところだ』
逆に見つめられて居た堪れない気分だ。
「呉原、明日からは堀口が復帰するな?」
「あ、はい」
急に常務が日本語で口を開いた。美月も陽菜もどこか嫌な予感がしていたのだが。
「弟殿下の滞在中、案内に同行出来るか?」
「え!?常務…ゎ、私がですか?」
「殿下は呉原に興味がおありのご様子だ。兄殿下は明日から社内での勤務を持たれるが、弟殿下には特にご予定もないそうだ」
「常務、美月は常務に付かない時間も後輩指導が…」
陽菜が口を挟むが、常務は取り合わず続けた。
「殿下は我社の大株主でもあられる。これから提案するが…どうする?」
「美月…」
二人の視線を感じながらも、美月は退路がない事を知っていた。この後提案するなら、今この瞬間に感情が表情に現れれば、相手も察するだろう。
「僭越ながら…私で差し障りないのでしたら、お受けします」
努めて穏やかな笑顔で答える。
「そうか…すまないな」
「いえ。当社にとっても日本にとっても賓客ですから、当然の事です」
『ミスターヤマグチ?』
『アズィール殿下、もしよろしければ、サイード殿下の滞在中に案内役として呉原をと考えておりますが、如何でしょうか?』
予想外とでも言わんばかりの王子二人が、美月を注視した。
『私でよろしければご案内させて頂きます』
ポカンと美月を注視したままの二人に、美月は苦笑いした。
『常務、やはり専門の方か、目の保養になる綺麗所から選んで下さいませんか?』
『……そうか』
常務は心なしか安堵したように見えた。
『…いや、俺は彼女で構わない』
我に返ったのか、サイードから美月を指名した。
『寧ろ…君に頼みたい。どう切り出そうかと思案していたところへの提案に、少し驚いただけだ』
『サイードと彼女がいいならお願い出来るかな?』
アズィールが常務にそう告げれば、勿論と答えざるを得ない。
『では今日の終業時刻頃に迎えをやろう』
明日からだと思っていたところに、サイードのその発言は思いも寄らない展開だ。
『兄上、俺は先に失礼する。部屋を手配したい』
『わかった』
『ミスターヤマグチ、あなたの提案に感謝する。ミズミシマ、またお会いしましょう』
二人には丁寧に腰を折って声を掛けた。
『ミズクレハラ…楽しみにしていますよ』
颯爽と個室を出ると、外に控えていた侍従を伴い、店を後にした。まるで嵐だ。
『ミズクレハラ、世話を掛けるがよろしく頼む。サイードがあれ程楽しげな姿は本当に久々だ。滞在は五日間だが…付き合ってやってくれ』
『私で事足りるか不安はありますが、精一杯努めさせて頂きます』
こうして美月はサイードの案内役を務める事となった――。
昨日とは違い、隙のないシンプルなグレーのスーツスタイル。白いシャツの首元には華奢なネックレスの鎖が見え、ピアスは華美でない小さな石のもの。目元は淡いグリーンで飾られ、唇はオレンジ系のルージュに彩られている。常務が脱いだスーツの上着を受け取る姿に、密かに苛立ちを覚える程度には執着し始めていた。
この時点でまともに交わしたのは、自己紹介だけだ。
『では両殿下、どうぞ』
テーブルに並ぶコース料理は色とりどりの食材が様々に調理され、一枚の皿の上の芸術作品のようだ。二人の秘書は所作にも全く問題がなく、さすがと言えた。
『サイード殿下、お酌させて頂けますか?』
すっと席を立った美月がサイードの隣に周り込み、膝を付いた。
『…頼む』
『失礼致します』
日本酒が気に入ったサイードに、美月が酌を進み出れば、陽菜はアズィールに酌をしていた。
『…君は飲まないのか』
『お気遣いありがとうございます。ですが本日は運転がありますので』
『代行させればいい』
『車は四人しか乗れませんし、まだ勤務時間中ですので…』
『真面目だな…日本人が勤勉だと言う話は本当のようだ』
呆れたようなサイードの言葉に、美月は愛想笑いして見せた。
『では俺もこれ以上は遠慮するか』
『殿下はせっかくですので、お召し上がり下さい』
サイードは美月と同じくクイーンズの発音だ。互いに耳障りはよいと感じていた。
『ミズクレハラ、君は普段から飲めないのか?』
『いえ、嗜む程度には』
『では、勤務時間外に車の運転の心配さえなければ飲むのか』
『そうですね。同僚や友人と行く事もありますし、自宅で飲む事もあります』
美月は問えば答えた。そのせいか酒も食事もよく進み、アズィールが驚くほどの上機嫌だった。
『実に楽しいランチだった、ミスターヤマグチ』
『こちらこそ』
陽菜が美月に車のキーを手渡す。
「美月」
「ん、切ってくる」
「了解」
美月は会計を済ませる為、席を外した。
『ミツキ、とは?』
『クレハラの名前です。意味は美しい月、ですね』
陽菜が答えてやると、サイードはその名を呟いた。戻った美月は注目を集めた事にキョトンとしていた。
『あの…何かありましたでしょうか?』
『サイード殿下が美月の名前の響きが珍しかったそうなの』
『私、ですか』
『美しい響きだ』
またキョトンとした美月は、思わずサイードを凝視していた。
『美月』
『…ぁ…大変失礼致しました』
『いや…そんなに見つめられるのは望むところだ』
逆に見つめられて居た堪れない気分だ。
「呉原、明日からは堀口が復帰するな?」
「あ、はい」
急に常務が日本語で口を開いた。美月も陽菜もどこか嫌な予感がしていたのだが。
「弟殿下の滞在中、案内に同行出来るか?」
「え!?常務…ゎ、私がですか?」
「殿下は呉原に興味がおありのご様子だ。兄殿下は明日から社内での勤務を持たれるが、弟殿下には特にご予定もないそうだ」
「常務、美月は常務に付かない時間も後輩指導が…」
陽菜が口を挟むが、常務は取り合わず続けた。
「殿下は我社の大株主でもあられる。これから提案するが…どうする?」
「美月…」
二人の視線を感じながらも、美月は退路がない事を知っていた。この後提案するなら、今この瞬間に感情が表情に現れれば、相手も察するだろう。
「僭越ながら…私で差し障りないのでしたら、お受けします」
努めて穏やかな笑顔で答える。
「そうか…すまないな」
「いえ。当社にとっても日本にとっても賓客ですから、当然の事です」
『ミスターヤマグチ?』
『アズィール殿下、もしよろしければ、サイード殿下の滞在中に案内役として呉原をと考えておりますが、如何でしょうか?』
予想外とでも言わんばかりの王子二人が、美月を注視した。
『私でよろしければご案内させて頂きます』
ポカンと美月を注視したままの二人に、美月は苦笑いした。
『常務、やはり専門の方か、目の保養になる綺麗所から選んで下さいませんか?』
『……そうか』
常務は心なしか安堵したように見えた。
『…いや、俺は彼女で構わない』
我に返ったのか、サイードから美月を指名した。
『寧ろ…君に頼みたい。どう切り出そうかと思案していたところへの提案に、少し驚いただけだ』
『サイードと彼女がいいならお願い出来るかな?』
アズィールが常務にそう告げれば、勿論と答えざるを得ない。
『では今日の終業時刻頃に迎えをやろう』
明日からだと思っていたところに、サイードのその発言は思いも寄らない展開だ。
『兄上、俺は先に失礼する。部屋を手配したい』
『わかった』
『ミスターヤマグチ、あなたの提案に感謝する。ミズミシマ、またお会いしましょう』
二人には丁寧に腰を折って声を掛けた。
『ミズクレハラ…楽しみにしていますよ』
颯爽と個室を出ると、外に控えていた侍従を伴い、店を後にした。まるで嵐だ。
『ミズクレハラ、世話を掛けるがよろしく頼む。サイードがあれ程楽しげな姿は本当に久々だ。滞在は五日間だが…付き合ってやってくれ』
『私で事足りるか不安はありますが、精一杯努めさせて頂きます』
こうして美月はサイードの案内役を務める事となった――。