美しい月
『シャーラムではこれを朝食代わりにする』
『朝から贅沢な気分を味わえそうですね』

ラストにはアラビックコーヒーだ。

『ミツキ、明日の予定だが…』
『何かご希望はありますでしょうか?』
『休館日の水族館を貸し切った。シャーラムは海に面していない』

貸し切りと言う響きに驚いたが、美月は笑顔で応える。カシムがその水族館の名を教えてくれた。近隣界隈では最大級規模の水族館で、テーマパークとしてテレビや雑誌にも取り上げられる有名なスポットだ。

『そちらでしたら、ゆっくり回るのに一日掛けても楽しめると思います』
『…ミツキは行った事があるのか?』
『はい、数年前に一度きりですが…』

不意にサイードが不機嫌そうに目を眇めた。

『男と二人、か』
『はい。ですが…当時五歳の甥とです』
『そうか、恋人はいないのか?』

その問いにはさすがに一瞬、表情が引き攣った。サイードもカシムもそれを見逃さなかった。

『…答えなければなりませんか?』
『もしいるのなら、相手への配慮が必要となるだろう?あらぬ疑いを掛けられて、二人を破局させては後味が悪い』
『仕事柄、恋人は作れません。私は第二秘書ですが、恋人の事以上に常務を知らねばなりませんから』

牽制としては百点満点の回答だ。そしてサイードにとっても最高の答えだ。

「カシム、準備は進めておけ…抜かりなく、な」
「はい、殿下」

アラビア語でそう告げれば、今度はミツキは首を傾げた。

『あぁ、すまない。秘書の鑑だと…思わず国の言葉がな』
『素晴らしいお心構えです。我々侍従も秘書とは共通する部分が多い…見習わねば』
『ですが侍従のお仕事となると、毎日でしょうから…私たち秘書とは責任度合いも違いますし、尊敬に値します』

それから暫くはダイニングで他愛もない会話を弾ませていたが、カシムの声にサイードは美月をエスコートする為に立ち上がった。

『もう少し飲もう、付き合ってくれ』

連れられたのはリビングから見えるテラスだ。夜景を望みながらゆっくり飲みたいと、サイードが提案した。

『…折角の夜に星どころか月も見えないのは勿体ない事だな』
『そうですね…都心部は夜でも明るいですから、星は綺麗に見えません』

互いにグラス片手にテラスの柵に寄り掛かり、眼下に広がる夜景を眺めていた。

『シャーラムでは星の一つ一つまでが美しい…国土にある広大な砂漠は昼夜を問わず厳しく危険な世界だが、やはり荘厳で美しい。俺はシャーラムの全てを愛している』
『…遮る物が何もない、三百六十度に数多の星が見える世界…綺麗でしょうね』

夜空を見上げた美月が瞬くたびに、瞳には夜景の光が反射する。

『あぁ…ミツキにも見せてやりたい。満天の星々…煌々と輝く真円や鋭利な刃のような月を…』

ふと夜空から視線を外すと、サイードが美月を見つめていた。

『シ、シャーラムは…素晴らしい国なんですね』

余りに真っ直ぐに見つめられて、胸に疼きを感じた美月は、慌てたようにまた夜空に視線を戻した。

『…ミツキ?』
『殿下は…初来日でいらっしゃいましたよね?』

話題を挿げ替えられた事に気付いたが、サイードは美月を見つめたまま、それに任せた。

『あぁ…元々来日の予定すらなかったな』
『アズィール殿下のご依頼でもあったんですか?』
『いや…兄上にも言える事だが、俺にもまだ妻はない。兄上はハレムに何人か愛妾はいるが、俺のハレムは未だ空のままだ』

テラス席からワインの瓶を手にすると、自身のグラスに注ぐ。美月の視界にも瓶をちらつかせれば、空のグラスを素直に差し出して来た。

『俺は王位継承権第二位だが、第一位の兄上は日々繰り返される縁談や女の話に辟易していた…それがついに俺にも回ってきた』

ワインを一気に煽り、また次を注ぐ。

『兄上と俺は株主をやってるS&Jの経営者交代に上じて、日本に逃げてきた。兄上は経営者、俺は新事業開拓の視察の為』

またしてもワインを一気に煽ったサイードのグラスを、美月はそっと押し止めた。

『殿下、余り無茶な飲み方はなさらないで下さい。お躯に障ります』
『構わない…ワインで酔う程弱くはない』

だがサイードは、美月の手をやんわりと退けさせて、ついに瓶を空にする。

『殿下…折角の明日のご予定をふいになさるおつもりですか?』
『水族館を回るだけだ。酒が残っても問題はない』
『ございます。具合のよろしくない方とご一緒しても楽しくありません』

ぴしゃりと言い切られ、注いだワインを口にしようとしたまま硬直した。

『私としては万全の状態で楽しんで頂きたいです』

反らされていた視線が、やっとサイードに戻ってきた。気遣う柔らかい表情。先程退けさせた手が再び伸びて来て、自然な仕種でグラスを取り上げられた。

『殿下、お聞き入れ頂けませんか?』
『………』

人工の光に瞬く瞳が、美月が背を向ける事で遮られた。手にしたグラスをテラス席に置くと、肩越しに振り返る。サイードの歩幅にしておよそ五。

『開館時間は十時のはずですから、そろそろお休みになられた方がよろしいかと』
『ミツキ』
『お先に失礼します』
『ミツキ!』

リビングに向けて歩き出した美月を追って、サイードが踏み出す。

『待て!ミツキ!』
腕を取り、引き寄せる。
『夜はまだ…これからだろう?』
『っ、な…何を…』
『俺に付き合ってくれるんだろう?』

強引に腰を抱いて向かったのは主寝室だ。柔らかなキャンドルの明かりだけの空間は、嗅ぎ慣れない香りに包まれていた。

『俺が寝付くまではここにいるんだ』

天蓋付きの寝台に横になったサイードが、傍にある椅子を示せば、溜息一つでそこに掛けた。

『…不思議な香り、ですね』
『俺の為の香りだ』

その香りはサイードの為だけに調香された香油のものらしい。

『ミツキの香りも作らせるか…誘うような甘い花の香りで…瑞瑞しい果実の香りもいいな』
『いえ、殿下…』
『俺の香と混ざり合った時…媚薬のように香るよう調香させよう』
『っ……』

美月を見つめたまま、熱を帯びたようにうっとりと囁かれる。

『ミツキが好むように、俺の香も調香し直すか…これを嗅げば嫌でも俺を思い出すように』
『で、殿下…』
『お前に恋人はいないのだろう?ならば俺が候補であっても問題はないはずだ』

心中、大アリだと呟く。相手はアラブの王族で、継承権を持つ王子なのだ。住む世界も何もかもが違う。

『国は違えど、男と女である事に変わりはない。この滞在期間は俺の恋人として遇する』
『ゎ、私は案内係です』
『では俺の恋人ごっこに付き合え』

衝撃発言の後、サイードはベッドから起き上がり、美月に歩み寄った――。
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