プラスティック・ラブ
先々バスケでメシが食えるようになれると期待を抱けるほどではないにしろ
生まれ持ったセンスとポテンシャルがその練習の効果を
2倍にも3倍にもしてくれた。
お蔭で入部から一年後には「天才」なんて異名がついた。


なりふり構わず全てを賭けて…みたいな汗臭いのは
正直好みではなかったけれど、それでも部活の練習以外に
朝夕のロードワークと筋トレも欠かさなかったのは
天才と言われたからでもレギュラーの誇りでもない。
自分の好きなことで誰にも『負けたくない』と言う
いたってシンプルな思いに突き動かされていただけだ。


・・・なんて格好つけたところで、結局は俺も汗臭い青春野郎なのかもしれない。
ま、そんなとこは絶対他のヤツラには見せへんかったけど。


そんな俺が、バスケ以上に熱くなれる『対象』を見つけてしまった。
それが彩夏だ。彼女との出会いは高3の夏休みだった。


明慶へ転入が決まった俺は、都内の大学に進学していた姉と
同居することになった。当初、俺に一人暮らしをさせるつもりだった両親に
猛然と反対をしたのは姉だった。
出席日数が足りなくて留年したのだから、一人暮らしなんてさせたら
それこそ放蕩して学校になど行かなくなると姉は思ったらしい。
自分が一緒に暮らして面倒を見ると言ってそれまで暮らしていた部屋を引き払い
俺が電車一本で乗り換えなく学校に通えるところに2DKのマンションを
借りてしまった。孤児の姉弟じゃあるまいし、弟に対して
そんなにも責任を感じることはないのだが、幼いころから
多忙だった両親の代わりをしてくれた姉だ。特別な思いがあるのだろう。
いわゆる弟バカってやつだ。


そんな姉に押し切られるかたちで両親も納得し、俺は上京した。
それから2年。今年の春、姉は職場に近い場所に自分の部屋を借りてここを出ていった。
通勤時間の短縮のためと、俺のことはもう大丈夫だと判断したというのは建前で
本音のところは「男」だと俺は見ている。もちろん、それを責めるつもりはないし
そんなのは年頃の姉にとって当然のことだ。むしろあの年齢で
弟バカで居てもらうのも困る。弟離れした姉に俺もどこかほっとして
解放感いっぱいの一人暮らしを大いに満喫していた。



現役から引退はしたけれど身体がなまってしまわないように
続けていたロードワークから帰ってきたある夕方のこと。


なかなか沈みきらない太陽がさらに熱さを煽り、じっとりと纏わりつくような暑さの中
最後の仕上げとマンションの階段を駆け上がったら隣の夏凛の家のドアが開いた。



はしゃぐ夏凛の声とそれを追いかける落ち着いた声は夏凛の母親。
遊びに来てた友達か誰かを見送るんやろうなぁと思っていたら
ひらりと白いスカートの裾が揺れ、すらりと伸びた膝下と
光るミュールの先に目が奪われた。
まとわりつく夏凛が押し出したような格好になって見えたのは
揺れた栗色の髪の間の柔らかな笑顔。



どきりと心臓が跳ねて呼吸が乱れたのは階段を駆け上がったせいだろうか。



「あ、マサヤくんだ!」
「おぅ」



駆け寄ってきた夏凛の頭を少し乱暴に撫でていつものように髪を乱してやると
彼女はやだぁ、と片手で頭を押さえ頬を膨らませて
俺の手を掴もうともう片方の小さな掌を伸ばす。
ひょいと腕を軽く上げてそれをかわせば、今度は両腕を伸ばして
背伸びしたりジャンプしたりする。


「チービ」
「チビじゃないもん!」


ムキになるところが可愛らしくて面白い。
これだから夏凛をからかうのは止められない。
ますます必死になっている夏凛には悪いけど、その姿は
まるで柳に飛びつこうとしているカエルだ、なんて言ったら……怒るやろうな。
それで叩かれて終るならまだしも、拗ねられたりしたら敵わない。
その後、ご機嫌を取るのも一苦労だ。お年頃にさしかかろうとしている女の子は
なかなか難しくて扱いにも気を使うけれど、その繊細さがまた可愛いんだよな、なんて
思っていたら「夏凛ちゃん」と柔らかな声がかかる。


その声にはっと表情を変えて夏凛が振り返った。


「あ!先生、さよなら」
「さようなら、また来週ね。」



先生と呼ばれたその人は、乱れた夏凛の髪を指でそっと梳き
2、3度頭を撫でるとにっこりと微笑んでちいさく頷いた。
別に俺に向って笑ったのではないとわかっているのに妙に胸が騒いだ。


アホか俺は。自意識過剰もいいとこだ。


夏凛の後ろに俺がいるからで…そんなのはわかっている。
でも、なんとなく視線が合ってしまったし黙っているのも変かなと思って
夏凛を真似てさよなら、と声をかけた。



すると微笑みはそのままに小さく会釈した彼女が答える。



「ごきげんよう」



  ご き げ ん よ う ??


そういう挨拶を校則として義務付けている女子高もあると噂に聞いた事はある。
でも実際「ごきげんよう」なんて挨拶された事は今まで一度もなかったから
思わず噴出しそうになってしまったのを咳払いで誤魔化した。
そんな言葉を普通に使うのなんて今時皇族くらいなもんやろう。
いやいや。もしかしたらそれに匹敵するほどのお嬢様か?
その疑問を解決すべく、一緒に見送る夏凛に訊ねてみた。



「あの人、誰?」
「家庭教師の彩夏先生」
「どこの人?」
「ママのお友達の従妹さん」


夏凛のママさんの知り合いならまず皇族なんて事はないだろう。



「年、いくつ?」
「高校3年だって」
「学校、どこ?」
「桐朋高校」


へぇ。桐朋ねぇ。



なまじ知らない学校名じゃない事と、場合によっては滑稽と言われかねない挨拶が
何とも印象深くて、俺は彼女を密かに「姫」と呼ぶことにした。
それは揶揄を込めたの軽いジョークのつもりだったのに
まさか本当に俺の「お姫さま」になろうとは。
出会いはどこでどう転ぶかわからないものだ。



あれから6年。
初恋を引きずったままで、なかなか頷かない手強い姫の手を取るまでに1年。
ようやく腕に抱いたのは更に1年後。短くはない時間に育んできたのは
穏やかな愛情とゆるぎない信頼。 些細な焦りで彩夏との繋がりが
断たれてしまうことだけは避けたかった。



バスケや勉強は努力すればしただけ、それはプラスの力となって己に返って来る。
でも人の心だけはそうはいかない。どれだけ相手を思っても
その相手が自分を思ってくれるとは限らないのだから。



忘れなくていい。成瀬以上に俺を好きになればいい、なんて
さも自信ありげな啖呵を切ったけれど実はただの強がりだ。
成瀬に対して男としての劣等感があるわけじゃない。
でも彼女のヤツへの思いがどれほどのものなのかは
俺が彩夏を想っている分
多分他の人間よりもずっと強く感じてしまう。
それでつい弱気になってしまう自分を奮い立たせるために張った虚勢だ。



「ったく、らしくねぇな」



たかが女一人に、と隣でグラスを揺らした一輝も
『たかがオンナ一人』を落とせずにいるなんて誰が信じるだろう。
一輝は あの御園ホテルの御曹司だ。
見てくれもいい。頭も切れる。金もあるとくれば女の方が放っておかない。
それなのに、思いは成就していないらしい。


「焦って壊したくない。『鳴くまで待とう』の心境なんや」
「意外だな。『鳴かせてみせる』タイプじゃなかったのか?」
「自信とか自惚れってなあ、本気で惚れたらのうなるみたいや。情けないけどな」


ふん、と小さく鼻を鳴らした一輝に嘲笑されようが呆れられようが構わない。
そんなものは彩夏との繋がりを失ってしまう辛さとは比べようもないからだ。

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