めぐる季節、また君と出逢う
1. 初秋
 竹輪のような形をしたコーンパフのスナック菓子を口の端に煙草のように咥えて、高科康熙(たかしなこうき)は難しい顔をして分厚い本のページを繰っていた。両親が九州出身だという高科の眉は濃く、二皮目がくっきりとしていかにも南国の男という顔をしている。引き締まってはいるが少し厚めの唇がスナック菓子の厚みの分だけ開いているのが、どうもアホくさいと言えばアホくさいし、それでいてその男らしい顔立ちのせいかそれとも集中している表情のせいかどこか様になっている。
 文字を追っている高科の眉間が、本の難しい部分に差し掛かったのか、ふいに深く寄せられたのを見たとき、白いプラスチックのカフェテーブルの向かいに座った平賀駿太郎は「もう駄目だ」と胸の中で呟いて目を逸らした。芝生の広がったグラウンドでバドミントンをしている一群を見やる。背の高い男が細い足で跳ねて器用に仰け反るように羽根を叩き打つと周りで見ている2、3人の女の子が黄色い声を上げて、またその羽根を相手の女の子が上手に屈んで受けて、女の子達の声が重ねて大きくなった。男子学生たちが大げさに手を打って喜んでいるのも見える。

 大学生活がこんなに勉強ばかりするものだと思って居なかった反面、多くのことは自分の興味あることばかりを選んで学べる面白さもある。学内のキャンパスのあちこちで、たとえば今芝生に遊ぶ学生達のような姿があり、そういう群を見ているとなんとなく自分だけが取り残されたような気がすることがあった。でも、いまは違う。違和感を感じる事がないわけではないけれど、自分なりに満たされているのを感じる事ができるから、羨ましいような気持ちは薄らいでいた。こうなってみると、あぁ、そうか、自分は彼らの事が羨ましかったのかな、と思った、というのが正しい。

 高校2年生の時、血液の病気に罹り半年強、学校を休んだ。留年し、孤独と隣合わせの高校三年生をなんとか終わらせたものの、私学の大学も悉く失敗し、ただ黙々と勉強した一年間の浪人生活の地味な努力を実らせてやっと「春」を迎えられたのが半年程前。天高い青い空を仰ぎ見る。イワシ雲が一筋、二筋と棚引いていた。


 「早くやっちまえよ」
 高科がその太い眉をぐっと持ち上げるように駿太郎を軽く睨んだ。言外に「誰の為にここに居ると思ってるんだよ?」という含みがあった。大学の構内にあるカフェテリアのテラスで駿太郎が政治学のレポートを書き終えるのを高科は待っていた。先日高科が見つけた安くて美味しい居酒屋に行く予定だがもちろん開店までには時間がたっぷりあるし、お互いにレポートやら課題やらを適当に終わらせてから駅近くでどこかひやかして行こうと話していた。政治学のレポートをさっさと終わらせた高科は経済学の課題図書に取り組んでいた。駿太郎は落ち着かない気持ちで、とにかくこれだけは片付けて行こうと高科に言われて仕方なしに、進まないシャープペンの芯を睨みつける。
(あぁ、もう、ゴジュウゴネンタイセイとかよく分かんないし、それに、もう…落ち着かない)
 シャープペンのノック部分でコリコリと頭を掻くと駿太郎はもう一度高科を見た。スナック菓子をサクサクと噛んで、組んだ足の太腿に零れた欠片を本から目を離さずに叩き落としている。
「なぁ、何書いたの?」
「んん?だから、五十五年体制についてだろ?」
「うん。だからさぁ、ただ五十五年体制について書けって言われたってなんも書くことないよ、俺。」
 高科はわざとらしい溜息をひとつついてパタンと本を閉じると、床に置いたキャンバスのショルダーからレポートを挟んだフォルダを出してポン駿太郎の方へ放った。それでも不機嫌そうな訳ではない。
「え?いや、いいよ。ただ、何…書いたのかな…って」
「ん?いいよ、見ても。五十五年体制とは何であるか簡潔な説明とその後の日本の政治体制への影響、現在の政治体制への影響は何であるか、という考察、それを踏まえた自身の政治に対する考え。あるいはなんかそれについて書かれた本とか読んだならそれの感想とか。それでいいんでしょ?多分。」
「はぁ…、なるほど…」
 駿太郎は政治学の講義の教科書になっている本の十頁もない『五十五年体制』の章ばかりを何度も読み直していたが、なるほど確かにこれだけの資料でレポートを書けと言われたところで書けるわけもない。興味がない、コマ数を埋めるためだけの講義だからこうやって基本的なことが抜けるのだ。
「な、今日はもう止めるよ。出よ?このレポートの資料明日図書館で見繕って適当に書くからさ。」
「時間はあるんだから今から図書館行けばいいじゃん?」
「もう今日はやる気しないし。」
「そう?んじゃ、行くか。でもそれ、明後日だぞ?知らねーぞ?」
「うん。」
 高科はそこでふいに何か考えるような顔をしたが、分厚い本とレポートの入ったフォルダーをショルダーバッグにしまいながら
「おっけ。じゃ、行こ」
 と、駿太郎を促した。シャープペンと消しゴムを忙しくペンケースに入れてレポート用紙と教科書を手にして駿太郎も立ち上がる。
「ロッカー寄って行っていい?」
「置いてくの?」
「ん。」
「…。持って帰ったら?本、貸すし。」
「ん?」
さっさと歩き出す高科を追いかけるように歩き出した駿太郎は「ま、いっか」とレポート用紙と教科書をリュックしまって背負った。高科は並木道まで出ると振り向いて駿太郎が追いつくのを待つと、またさっさと歩き出した。

(いつもこうなんだけど)
と、駿太郎は考える。並んで歩くより背中を見ている方が多いくらいだけど、一緒に居る事にはなっている。でも、並んで歩いて彼を見上げるよりも、その背中を見つめている方がいい、と駿太郎は思う。最寄駅に近いほうの校門を出て庭木に赤みを増す住宅街を歩いていく。薄手のモッズコートに両手を突っ込んでいるせいで少しまるく屈んだ高科の背中の広さを駿太郎は追って行った。

 午後4時の新宿駅はそれなりに混んでいた。ラッシュを避けようとする買い物客、直帰しようとしている営業マンあるいは一度会社に戻らないといけない営業マン、学生、老若男女。
「何口?」
 電車の中は比較的空いていたのに、と思いながら改札口になだれ込むような人込みでぶつかり合うのを避けながら高科の背を追い見あげるようにして訊ねると高科は無言のまま駿太郎の腕を引いて自分の前で改札を通し自分も後に続いた。振り向くと高科は駿太郎を追い越しながら
「西口」
 と真っ直ぐに吹き抜けのようなロータリーの方を指差した。そして駿太郎の一歩か二歩前を歩いて行く。この距離を取って高科が駿太郎の前を歩いて行くと、そこにはちょっとしたポケットが出来て駿太郎は人混みを歩くのが楽になる。高科が意識してそうしている訳はないにしても、駿太郎はなんとなく高科に守られているようで嬉しかった。思うのは自由で誰に迷惑を掛けることもなく幸せを感じているのだからそれでいい。トンネルのように続く地下道に入る入り口で、吹き抜けの方から吹いて来た風はもう秋の終わりを匂わせていた。ライダースジャケットを模した厚手のコットンのジャケットの衿をぎゅっと詰めて風の吹いて来た方を見上げると、赤茶色い枯れた葉が一葉ひらひらと舞い落ちてくるところだった。
(もうすぐ十月かぁ…。もう半年近くなるんだなぁ…)
前を行く高科のモッズコートの裾を掴みたい衝動に駆られながら、駿太郎はまた高科と出逢った日を思い出してみる。

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