めぐる季節、また君と出逢う
2. 回想 ~春または初夏~


 風薫る五月、大きく開け放した講義室の窓から明るい光が窓際から二列目の席まで届いていた。黒板の前の席を取った駿太郎の席までその日差しは届かなかったが、ほんのりと影になった席は板書しやすい。新入生の多い講義のせいか、教室の雰囲気そのものが華やいでいて明るかった。教授が教壇を右へ、左へと歩きながら教科書を読み上げ始めた時、駿太郎は黒板に揺れている木の影に見とれていた。葉の一枚一枚が陽を受けて薄く、濃く揺らいでいた。葉の重なりまで見えるようなその影は春の光があふれる教室でとても健康的であり、同時にとても幻想的で魅惑的な幻灯のようだった。そのとき、突風が講義室を吹きぬけ、駿太郎のルーズリーフが煽られて舞った。講義を板書したほんの数枚、一番前の席なので誰もいない隣席に飛んだ分を拾い、足元も確認してルーズリーフをバインダーに挿(はさ)み、駿太郎はまたぼんやりと黒板に映る木の葉の幻灯を見たり、窓の外を見たりしながらそのまま講義を受けた。

 講義が終わり、駿太郎は一人薄暗い旧館の廊下を渡っていた。リノリウムの床が少しゆがんでいるのが、先ほど見た黒板に映る幻灯の続きのようだ、と思った。
「──。…いっ。おいってば!!」
強く肩を掴まれて、バランスを崩しそのまま肩を掴んだ相手の胸の中へ倒れこむようになった。
「え…?」
駿太郎よりも頭ひとつ大きい男はそれでも見た目よりもずっと優しく駿太郎を自分の身体から起こしてくれた。
「どうもすみませんでした、ぼーっとしてて」
駿太郎はそう告げて立ち去ろうとしてもう一度その男に呼び止められた。
「すみませ…って、いや、俺が、ちょっと力強すぎた…つか、そうじゃなくて、これ。」
彼が差し出した紙には確かに駿太郎の筆跡が踊っている。
「あれ?僕の?」
「さっき、風で吹き飛ばされてただろ?」
「あぁ、そうか…そうだった。どうもありがとう。…ございました。」
急いで付け足した敬語に男は苦笑いする。
「同級生だよ」
(同級生?…ってことは、もしかして年下?それにしても…)
意外な共通点だ、と目を瞠った駿太郎から目をそらすように俯いた彼の睫は濃く、長かった。
「敬語、とか、使うなよ。」
ぶっきらぼうに言う彼は、でも、多分口ほど悪い人間でもなさそうだった。
「あぁ、そういえば…結構同じ講義取ってる?よね?」
背の高い彼は目立つ。彼は背が高いけれど遠慮もなく前の方の席を取る事が多かった。よほど席数が足りなければ別だが大学の講義室の前方を取る人間は少ない。だから余計に目立った。彼はいつも最前列を取る駿太郎の斜め後ろあたりを取る事が多かった。新学年が始まってひと月、その席順は殆ど指定席のようになって来ていた。きっと真面目な学生なのだろう、と思う。
「次、英II、じゃない?」
「うん、だな。」
 そうして二人はどちらが誘った訳でもなかったが何となく足並みを揃えて英語IIの講義室のある語学棟へ歩いて行った。

 思えば彼と並んで歩いたのってあの時位じゃないだろうか。英語II の講義の後、何となく一緒に昼ごはんを食べて、午後の講義が始まる時彼は定食のお盆を二つ下げながら「おい、行くぞー」と先に立って行った。長い足を持て余すように、狭い食堂のテーブルの間を抜けて、グラウンド側の扉へ向かっていく彼に追いついたのは彼がドアを開けて待っていてくれたからだった。彼の白いダンガリーシャツの腕の下を潜るように出たとき、ふっといい匂いがして、一瞬だけ呆けてしまった駿太郎を置いていくように高科は先を歩いていった。その時から駿太郎はいつも先を行く高科の背中を見てばかりいる気がする。


 どこが始まりだったのかと問われたら、あの食堂のグラウンド側のドアだったのかもしれないし、それともあの旧館の渡り廊下だったのだろうか、とも思う。あるいは食堂で彼の名前を聞いたあの瞬間だったのだろうか。


「タカシナコウキ」
一度手にしたプラスチックの箸をもう一度トレーに置きなおして両手を合わせて小さく「頂きます」と言った彼に駿太郎が名前を聞いたとき、閉じた瞼を開いて駿太郎を真っ直ぐに見つめて彼は言った。
「高い低い、の高いに、科目の科、健康の康に、こうきのき、は難しいんだけど…大臣の臣って言う字に、辰巳の巳、蛇の巳ね、それから下に点をよっつ…康熙帝っていう中国の清の皇帝から取ったらしんだけど。」
「シンのコウテイ?」
「ん、ま、いいよ。お前は?ヒラガって平賀源内の平賀?」
「うん。なんで俺の名前知ってるの?」
「出欠席で名前呼ばれる講義あるじゃん。で、下の名前は?」
「駿太郎。駿馬の駿に、太郎花子の太郎。」
「駿馬の駿…って感じでもないけどなあ、お前」
「…うん。気にしてるんだけど、一応。でも、かけっこは速いんだ。」
「あぁ、そうなんだ。かけっこ…」
クスクスと笑いながら高科は長い指を見せ付けるように綺麗な箸使いで黒豆をつまんだ。彼の男らしい顔とその口調からは少し意外なほど上品な食べ方をする。育ちがいいんだろうな、と駿太郎は思った。
(シンのコウテイ…皇帝から名前を取るあたりもそんな感じ。)
「…あぁ。そっか、清の皇帝か。」
「あ?」
「清朝の皇帝、ってことだ、シンのコウテイ」
「あぁ、その話?なんだお前やっぱ少しも駿(はや)くねえじゃん…!」
 高科は大きな声を上げて笑った。豪快なその笑顔は見た者がつられてしまうというよりは呆気に取られてしまうような笑顔だったけれど、見惚れてしまうほど魅力的だった。


「──…?なぁ、聞いてる?」
 突然歩みを止めた高階の右腕にドスンと突き当たって駿太郎は事あるごとに思い出す高科との出逢いの場面から夢が覚めたように現実に戻った。
「あ、ごめん。何?」
「どうしたの?お前、最近いつもぼーっとしてない?」
「え?そう?んー…なんだろうな。夏の疲れが…」
「今頃?どこのオヤジだよ。…とにかく、居酒屋が開くにはまだ早いからさ。どっか行きたいとこある?それとも疲れてるならお茶でもするか?」
「うーんと…お茶、したいかな。あ!でも、やっぱり、えっと…」
 目の前に高科が居てコーヒーを啜る姿を見るというのも、きっと自分はぼんやりと彼を眺めてしまうだけになりそうだ、と思うと二人でのんびりお茶を飲むという贅沢な時間も躊躇われた。少し考え事をするように地下通路の向こうを見ていた高科が思いついたように言う。
「じゃぁ、バッティングか卓球でもする?」
「あ、うん、する。そうする。卓球がいい。」

 夏の「疲れ」ではなかったけれど、夏の「名残」が駿太郎の胸の奥から退かない。最近妙に気持ちがざわついて落ち着かなかったり、ぼーっとしたりするのはそのせいなのだと自分では分かっていた。大学の夏休みのほぼ二ヶ月は、駿太郎にとってこの人生で最高の夏だった。

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