めぐる季節、また君と出逢う
4. 初秋 (2)

 「そろそろ行くか?」
息を切らせて背の高い椅子に腰掛けた高科が額にうっすらと浮いた汗をラケットを持った手の甲で拭いながら言った。青空のような色のコットンのニットを脱いでTシャツ一枚になった彼の腕はまだうっすらと夏の日差を名残を乗せて焼けていた。メロンソーダを飲み干して、同じように息を切らせている駿太郎を見る。駿太郎は両手をぶらんと下げて身体の力を全部抜いた姿勢でテーブルに近寄り、高科が飲み干して空になったメロンソーダのグラスの横にラケットを置いた。それからボールをそぅっとラケットのラバーの上に載せて、そしてやっぱり置くのを止めて、ボールを握り締めたまま、ウーロン茶をストローでごくごくと力強く啜る。ふぅっと息をついて日が暮れた都会の繁華街を見下ろした。たくさんの人が行き交うあの路上を自分たちが歩く。高科の背を追って駿太郎が。駿太郎を気遣うのに先を行く高科が。その様子をあと何分後後かに誰かがここから見下ろしたりするのだろうか。ここでなくても、この街のどこかの窓から。

 その時、高科の手が駿太郎の手に伸びて、高科の指先が駿太郎の掌に触れた。ストローを支えていた手は不意に解けてピンポンボールが落ちたのを、高科の手がキャッチする。ただそれだけの事に胸が躍るように鳴っている。
(手を…握られるのかと思った。)
 まさかあるはずのないことを想像してしまうのはそうしたいと自分が思っているからだ。駿太郎はとっくに気付いている。ボールを落とした手を手持ち無沙汰にキュッと握り締めて、ウーロン茶を飲みきると、やっと駿太郎は高科を見る事が出来た。
テーブルの下に置いたリュックを背負って、二つのラケットでキャッチボールかお手玉のようにボールを捌きながら歩いていく高科を追って卓球テーブルを後にした。


 ウーロン茶のグラスを両手で持って、居酒屋の座卓の上に腕を置いている。大きな身体はその座卓の上に圧し掛かるように背を丸めている。手の甲に顎を載せて、高科は上目遣いに駿太郎を見た。それから身体を起こし、肘枕をしながらウーロン茶を飲んで、横目で駿太郎を確めるように
「強かに酔いましたか?」
 となぜか敬語で訊ねた。
駿太郎は「見りゃ分かるでしょ?」と答えたつもりだったけれど、本当に答えたかどうか自分でもよく分からなかった。頬が火照っている。頭の中に小さな扇風機があってそれがクルクルと回っているような感じだ。
「酔った。」
 そういった自分の声が思いのほか大きく響いて駿太郎はなんだか可笑しくなる。それでクスリと笑った。
「酔ってんなあ…」
 高科が言う。
「なぁ?」
「うん。」
「寝るなよ?」
「うん。」
高科は少し怒ったような困ったような、そんな顔をしていた。

 (でも、眠い。)
 そこからの記憶が所々フワフワと怪しかった。駿太郎は高科のアパートの小さなテーブルで水を飲んだ。それから、何か思い切り高科に語ったけれど内容は覚えていない。そして、高科のベッドに横になった。高科はベッドの横に居て駿太郎を見ていた。手を握って欲しいな、と思った。小さな子どものように身体を横向けて寝て枕の横に手を置いた。でも、もちろん、高科は駿太郎の手を握ったりなどしなかった。少なくとも現実では。あるいは、駿太郎のあやふやな記憶の中では。
 部屋が薄明るくなった頃、一度目を覚ました。ベッドの上で寝返りを打って、一瞬此処はどこだろうと思ったものの、直ぐに記憶の断片を呼び起こし、駿太郎は高科を捜した。ベッドの下に、毛布一枚を掛けて寝ている高科を見つけた時、少し安堵して、こんな所に寝てたら…と思いながらも眠気が彼を陵駕した。うつぶせになって、左手をベッドの下に伸ばした時、そっと高科の腕に触れた指先がほんわかと温かくなった。
 次に駿太郎が目を覚ました時、部屋の空気は白かった。其処此処に満ちているのは駿太郎が寝ているベッドの頭の方にある窓から差し込んでいる朝日だった。簡易な家具が据えられた学生らしい部屋は粗雑にすっきりとしていた。ゆっくりと身体を起こすと、ずっしりと頭が重い。ぐらりとする頭を抱えてベッドに半身起こしたままじっとしていると、かちゃりと皿の音を立てて高科が狭いキッチンから駿太郎の様子を伺ったらしかった。
(甘い香りがする…)
「起きたの?」
どこか遠慮するような声の掛け方で高科が言った。
「…ん…」
 高科の手に玉子焼きを載せた白いパン皿があった。部屋の真ん中に折りたたみ式のテーブルがあって、その上にパン皿を置くと高科はまたキッチンの方へ戻って行った。冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえて、高科が牛乳とグラスを持ってやって来た。そしてまたキッチンの方へ戻る。そうやって何度か行き来した後、高科はテーブルの前に胡坐をかいて座った。
「食える?」
 高科がテーブルの前からベッドの上に座る駿太郎を顔を覗き込むように屈んで訊ねた。
「…ん」
 大きな声を出したらきっと頭に響く。駿太郎はそぅっと答えて、そうぅっと足をベッドの下に下ろすとずり落ちるようにベッドの下に下りた。
 高科は立ち上がってキッチンへ行った。それからグラスに一杯の水を戻ってくる。駿太郎が掠れた声で「ありがと」と言ってグラスを受け取ると高科は駿太郎を見守りながらテーブルの先ほどの位置に座った。駿太郎はグラスの水を半分ほど飲んで尻をずらしながらテーブルに近づき、グラスをその上に置いた。その間中高科は何も言わず手を踝の辺りに置いたまま駿太郎のことを見つめていた。その目は何かを言おうとしていて同時に何かを訊ねようとしているように見えた。駿太郎は座り心地の良い姿勢を捜して座り直す。
「おはよ…う」
 きっかけを作るようにとりあえず口にしたが、駿太郎の声は低くざらついていた。
「おはよう。」
 高科は答えた。そしてそれ以上は何も言わない。やはり駿太郎を見つめている。
「えっと…あの…、」
 それから、いまこの場を繕う言葉をひとしきり考えて駿太郎は
「昨日は、飲みすぎちゃって、ごめん」
 と謝った。かくんとうな垂れた時に自分の前髪がゆらっと落ちて、そして昨日卓球をやって汗をかいたのにシャワーも使っていなかった事を思い出す。その時、高科が身じろいで言った。
「そんだけ?」
 そんなに難しいことを問われた訳ではない。自分が言った言葉の何かが『足りない』と言った男の言葉をもう一度頭の中で繰り返してみたが、駿太郎は一体何を問われたのか理解する事ができなかった。
「政治学のレポート…」
 高科はそう呟いて立ち上がると、部屋の隅にあるカラーボックスの前に積んであった本を取り、テーブルに向かって座る駿太郎の横にどさりと置いた。片膝をついて、四、五冊もあろうか、積み上げた本の上に手を置いた。
(近い…)
 高科の白いTシャツのゲージが見える程近い距離に駿太郎は一瞬に二日酔いが冷める思いがする。高科が見下ろしている視線を感じるけれどそれを確めることも、そしてそのTシャツの胸元から目を逸らす事もできずに、駿太郎は自分の鼓動が速まっていくのを感じた。
「なぁ、言いたいことは、そんだけ?」
 囁くように言った高科の声は、少し震えているように聞こえた。
「そ、そんだけって…?」
 駿太郎は自分の背の方に手をついて少し後退った。ほんの十センチ、今その距離が駿太郎に高科を見るという勇気をくれる。高科はすぅっと目を細めて駿太郎を見ている。
「俺が、政治学のレポート、俺んちでやれよ、って言った時、何も思わなかった?」
 試されている事だけが分かった。ただ、どちらが正解なのかが分からない。高科の細めた目はどちらが正解だと言っているのだろう。それを知りたくて、高科から目が離せなかった。
── めぼしい本は俺が借りたから…うちにあるよ…うちでやったら?
あの時も、何かを試されていたのだろうか。
「…ったく、もう。…だから…こーゆー、」
 積んだ本が崩れて、床についた駿太郎の手の甲に当たった。高科の頬が駿太郎の耳に触れた。そしてその頬が戻る時、駿太郎の耳に
「──こと」
 そっと唇が触れた。それが唇だということが、息遣いが伝わったから分かった。
(こういう、こと?)
 高科は駿太郎の肩を抱いて、そっと駿太郎を放した。苦笑いを浮かべた顔が大人びていた。耳が熱い。高科の唇が触れた耳がぼっとマッチを擦ったように熱かった。高科の吐息が、駿太郎の耳を燃やして、そして、その熱はつんと鼻の奥を刺激する。その熱は喉の奥へ伝わってぎゅっと詰まった駿太郎の声をやっと音にして朝の高科の部屋の空気を振るわせた。
「こういう、ことって…」
 自分の声に自分が思うよりずっと安堵した駿太郎は、そして、素直に次の言葉を継ぐ。駿太郎の耳に触れた高階の唇が、少なくとも、その言葉を言っていい、と言った気がしたからだ。
「…下心が、あったよ」
 そうだ、下心があった。あの時、高科が「俺んちでやってけば?」って言った時、夜中高科と一緒にいるんだとしたら、自分はどうなっちゃうだろうかと。ペンションの仕事が始まる前のキッチンで朝ごはんを食べる時、牛乳を飲み干す高科の喉仏や、寝起きの頭のピョコンと跳ねた髪、眠そうに眇めた目、昼休みのリビングで少し横になったつもりで寝てしまった高科の無防備な肢体、風呂上りに髪を拭きながら廊下を歩いてくる姿を、何度も何度も記憶の中で再生して、高科に抱いたやましい心があったからだ。ずっと。見て見ぬ振りをして、気付いていたけれど置いてきぼりにした、自分の下心を酩酊させるように飲んだ一晩が明けた、朝日の中に高科の苦笑いが解(ほど)けていく。
「俺も、」
 高科が片膝を抱いて言った。
「あったよ。駿に、下心。」

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