めぐる季節、また君と出逢う
5. 初秋(3)

 高科の長い腕が駿太郎の頭を優しく抱いていた。大きな手は何度も、何度も、駿太郎の髪を梳く。駿太郎の顔の下半分は高科の上腕に覆われていた。肩越しに高科の部屋を見つめる。回らない頭で必死に今起きていることのひとつひとつを記憶しようと思うけれど自信がなかった。たったほんの数秒前に、自分を見つめた高科の潤んだような瞳も、もう擦り切れてしまったのではないかと思える。(もう一度、見たい。)駿太郎は高科の腕に添えた手に、ぐっと押し上げるような力を込めた。高科は駿太郎から身体を引いて駿太郎を見つめた。(そう、その目を)
 「何もしねーよ」高科は駿太郎を宥めるように言った。それからクスリと笑って「今日は、まだ。」と付け加えた。
 何もしない、と彼が言ったのは、駿太郎が身体を離すように力を込めたことをきっと誤解したのだ。
 「そうじゃ、なく、て。」
 「ん?」
 「高科がどんな顔してるか、見たかった、だけ。」
 切れ切れになる。言いたいことのすべてを伝えられないのがもどかしいし、本当にただこれだけでも伝えようと思う事すら声になるのが難しかった。
 高科は一瞬泣きそうな顔になる。高科にこんな風に脆い所があるなんて駿太郎は知らなかった。そして、こうして脆くなる高科が自分の所為だと思うと、胸が潰れそうに痛い。嬉しくてこんな痛い思いをするなんて、そのことも駿太郎はたった今まで知らなかった。高科は腕に力を込めてまた駿太郎の頭を掻き抱いた。
 「ど(うして…?)」と訊ねかけて、ただ疑問に思った言葉がとても重たい意味を持っていると気付いた駿太郎はそのまま声にならなかった言葉を飲み込んだ。
 「んん?何?」
 聞こえなかった、と問う高科の声は清(さや)かに駿太郎の耳朶(じだ)を震わせる。
 「ううん、あの…」
 その代わりに駿太郎はふと思った疑問を投げかけてみる。
 「いつ、から…?」
 いつから、こんなふうに自分を思ってくれていたの?と素直な疑問が口をついて出た。高科は困ったように眉を顰めて笑いながら、駿太郎を腕から離して駿太郎の横に寝転んだ。それから、子どもを寝かしつける親のように肘をついて大きな手を駿太郎の膝に載せると、「そうだな…」と駿太郎が背にしているベッドの縁を見つめて記憶の糸を手繰っていった。高科の手からつたわる熱がじんわりと駿太郎の腕を伝わって駿太郎の胸を焦がす。
 「いつからだろうな…。初めは、こいつ、いつも一番前の席だなって思った。それから、色んな講義でお前がいるかいないか確めるようになって。そのうち、なんとなくお前のこと目の端に入れておきたい気がして。──それから、あの、風が吹いた日、お前のルーズリーフが飛んできて、板書したルーズリーフ、あれを渡した時、俺、なんか緊張してたと思う。力が入りすぎてたろ?お前、なんかこう、俺の方に倒れてくるみたいになって…そういや、あんとき、俺、お前のこと呼び止めたのに、お前さ、『ごめんなさい、ぼーっとしてた』ってぶつかったの謝るみたいな感じでさ、ほんとにぼーっとしてたのな?おいおい、呼び止めたんだってって、」
 ポツリポツリと記憶の糸を繋いでいく高科の目の焦点が駿太郎の上で合う。そして駿太郎に横になるようにポンポンとラグを叩いて駿太郎を誘った。 
 高科は「よく分かんねーけど」と照れくさそうに言って、それから少しだけ躊躇った後、横に寝転んで肘をついた駿太郎の髪を梳いた。
 知らなかった。いつも、一人取り残されたような大学生活の中でぽっかりと空いた穴を塞ぐように講義室に通っていた新学期、何もする事がなくて、前の席に座ることで多分自分の存在価値を自分で認めようとしていた。そんな自分を見守っている目があったことに少しも気付けないくらい、自分は必死だったんだろうか。高校で留年して、大学に入るのに浪人した。自分だけが感じていた周りとの2歳差という溝。たった一枚のルーズリーフが高科のところへ飛んで行った、そのことの意味。あの時、黒板に写っていた幻灯、一枚一枚の葉が大木の影を彩ったように、一つ一つの出来事が少しずつ重なり合って、今、二人を映し出しているのかもしれない。一葉、一葉の葉。たとえば、あの頃の事も。


 もともと友達の多いほうではなかった。大学附属の私立の男子高校には公立中学校から滑り止めで入学した。附属の中学からあがってくる生徒が殆どだったので高校から入った生徒は少しだけ異質な感じだった。高校二年生の6月に発症した病気は大して痛くも痒くもないのに難病指定で夏に悪化し入院した。数ヶ月入院して外出許可が数日出たらもう一度入院するという事を繰り返し結局高校二年生の半分以上病院を行ったり来たりしていた。出席日数が足りずに2年生をやり直した。クラス替えがあったにせよ、新入生でもない生徒が一人混じっていれば嫌でも目立つ。どうやら留年したらしいと噂の的になって、まだ春のクラス替えから数週間の頃、昼休みの水道で、同じクラスの生徒が二・三人、「平賀って留年してるんだってな。」「そうなの?何で?」「さあ?」「やばい事したの?」「知らない」などと話しているところに居合わせてしまった。向こうがヤバイ、という顔をして話を止めたとき、普通に「病欠で出席日数が足りなかったんだよ」と一言言えばよかったのだ。ただそれだけのことが出来なかったばっかりに、駿太郎はその後の一年半もを殆ど独りきりで過ごさなければならなかった。
 殆ど、というのは、たった一人だけだが他の生徒と接するのと同じように駿太郎に接してくれた人物がいたからだった。羽田裕人(はだ ゆうと)という生徒だった。羽田は附属の中学校からの生徒だった。いかにも育ちが良さそうな明るい生徒で、中学からの友人達の多くに囲まれていた。それでも何かの拍子に駿太郎のところに来て普通に話して、普通に去っていくのが、駿太郎の高校生活をどれくらい救ったか分からない。不思議なことに、図書館や委員会などで遅くなるときはよく帰りが一緒になることがあった。そんなときは普通の高校生の友達同士のようにファーストフードに寄って色んな話をすることもあった。
 「お前ってほんと沢山本読んでるんだなぁ。お前と話すと色んな事知れて面白い。」
 羽田の声が明るく楽しそうに言ってくれた自分への褒め言葉を、駿太郎は今も大事に思っている。羽田は附属の大学へ進学した。駿太郎が通っていた予備校と羽田の大学のキャンパスが近かったので時折通学路周辺で会う事があったけれど、駿太郎が無事に大学に合格してからは会わなくなった。

 「もしもし、駿くん?何考えてんの?」
 高科の声に我に返る。駿君、なんてワザとらしく呼んで憎らしいな、と駿太郎は高科頬っぺたをつねった。
「痛え」
 頬をつねる駿太郎の手を包み込むようにしてその手をどけると高科はその手をぎゅぅっと握って自分の胸元に抱いた。
「高科、初恋って、いつ?」
 高科は駿太郎の目を探るように見た。そして一息して
「そんなこと、聞きてえの?」
 と微笑んだ。
「聞きたいよ。高科のことなら、何でも知りたい。」
 こうして高科のいくつもの夜を吸い込んだ蒲団の上で高科に触れられていると、そんな恥ずかしいような言葉さえ素直に口をつく。高科は口の端を曲げて笑うと
「可愛い事、言いやがってー」
 と駿太郎の髪をくしゃくしゃとまぜっかえした。
「んー、そうだなぁ、小六のときかなあ。」
 高科の懐かしそうに細めた目がまた駿太郎の背の方の壁に吸い寄せられていく。(高科が好きになった人、高科のその目を細めて愛おしげに見詰つめた人、高科の手が撫でた人…)その、幼い恋の後に高科はいくつの恋をしたのだろう。でも、駿太郎はそれ以上のことを訊くことはできない。それは「まだ」できないのかもしれない。「いつか」訊くことがあるだろうか。分からないけれど。聞きたい気持ちはあった。でも同時に怖くもある。これが恋する気持ちなのかもしれない。
「高科は訊かないの?」
「駿の初恋?訊いて欲しい?」
「そう、じゃないけど。」
「いつか、な。」
 初めて見る顔をする。高科の優しい微笑みが駿太郎は切なくて仕方がない。この微笑みは確かに自分に向けられたものなのに、確かに自分のためだけのものなのに、どうしてこんなに切ないのだろう。手にする事ができない心もとなさや、一瞬で消えてしまう事への焦燥感が、こんなふうに切なくさせるのだろうか。時が過ぎていくという当たり前のことが悔しくなる、そんな気持ちを味わう事が恋なんだろうか。


 そんな気持ちを、彼も自分に対して味わったのだろうか。羽田、今はどんな恋をしているのだろう。その人は、少しでも自分と似ているのだろうか。あるいは少しも似ていないのだろうか。
 
< 6 / 20 >

この作品をシェア

pagetop