雪の足跡《Berry's cafe版》

「どうせ私は顧客なんでしょ?」


 先に降りた八木橋の背中にエレベーターを降りながら言った。


「顧客と遊べてラッキ……」


 そう言い掛けた時、八木橋が振り返った。そして私の片腕を掴み、壁に寄せた。


「ちょ、な、何……」


 目の前には八木橋の顔面、唇には少し冷えた八木橋の唇が重なっていた。バサリ、とコンビニ袋の落ちる音。もう片腕をジャケットの上から押さえ付けるカサカサとした音。目を閉じると自分の心臓の音に混じり、八木橋の息が聞こえた。身動きが取れない。押さえ付けられてるのもある。驚いたのもある。それより、このまま動きたくない、そう思って唇を八木橋に委ねる。

 しばらくして他の客の足音が聞こえて、八木橋は私から離れた。


「……黙らないからだ」


 そう言ってコンビニ袋を拾い上げ、部屋に向かって歩き出した。やはり八木橋は無言で、茶化してはくれなくて、怒っているんだと思った。部屋に入り、羽織っていたダウンジャケットをハンガーに掛け、鴨居に下げた。八木橋はロックアイスの袋を開け、割り箸を突っ込んで塊を掴むと叔母達のグラスに落とした。


「ユキさんも入れますか?」
「……はい」


 八木橋はすんなりと私の名にさん付けをした。その敬語に八木橋との距離を感じながらもそのグラスに口を付けた。冷えたグラス。八木橋は叔父や母とスキー談議をしていた。父の影響でスキー用語は耳に馴染んでいたからだと思う、二人は八木橋の熱の入った話に耳を傾けて頷いていた。

 私はチビチビと地酒を飲む。その冷えたグラスは八木橋の唇のようで唇が縁に触れる度にさっきのキスを思い出してしまう。キスの意味を考えるけど、八木橋との微妙な距離に、物理的に私の口を塞ぐための手段にしか思えなかった。




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