月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
それから、仕事を再開させて机に向かっても、意識は常に橘左少史の言葉と音人様の事に向かってしまい。
いつのまにか日も中空に昇ろうという時刻になって、周りの者が終業の支度を整えるようになるまで、それは続いてしまった。
結果として、今日は一日呆けていただけ。
決して多くはない量の仕事だったのに、ほぼ手付かずの状態で私の机にある書類を眺めて溜め息をついた。
「藤侍従?調子が悪そうだけど大丈夫?もう終業よ?」
気遣うように声をかけてくる橘左少史に、私は笑顔で言った。
「大丈夫。少し考え事をしてしまって……。全く仕事が進んでないから、私今日は少しここに残ります」
そう告げると、彼女の眉が困ったように下がった。
「そんな、無理をしては駄目よ?何なら私も手伝おうか?」
私は首を横に振って、彼女の申し出を断る。
「いいの。私に割り当てられた仕事なのだから。私がやらなくては」
そうして会話を断ち切るようにして、体を再び机に向かうと、彼女は少しして、諦めた様に去っていった。
「……ふう」
気付けば既に誰もいなくなった仕事場に、私の溜め息が沈み込む。
それでも、もう手は止めるわけにはいかないと強く思いながら、再び考えてしまうのは、やはり音人様の事。
──今日、ここに残ったのは、本当に“仕事”のため?
頭の中でふと浮かぶ、そんな疑問。
──文が来ていなかった時の胸の苦しみから、逃れられる言い訳が欲しかったのではなくて?
どこかにいる冷静な自分の声に、胸を捕まれたような気分になる。
……そう、かもしれない。
もし、これから帰ったときに、音人様からの歌が届いていなかったとき───。
残って仕事をして、遅い時間に帰れば、「こんな時間ならもし歌が来ていても返事すら出来なかった」と言い訳が出来る。
私は、そんな逃げ道を、いつの間にか求めていたのかもしれなかった。
(……でも、そうだったところで今さら遅いわ)
私は小さく息をついて、止まっていた手を再開させた。
理由はどうあれ、私が仕事を呆けてしまっていたのは確かで、その務めは果たさなければならない。
出来る限りの頭を空にして、私は目の前の書を片付けることに集中した。
* * *
「ただいま帰りました……」
あれから全ての書を仕上げ、私は帰路についた。
空の真ん中から少しばかり移動した太陽が、玄関をくぐる私に日射しを落とす。
沓脱で履き物を脱いでいると、今日もばあやが迎えに出てくる。
「おかえりなさい。遅かったじゃないか」
「ええ……仕事で、色々あって」
まさか職務中に怠けていた分を残ってやっていたなどとは言えず、私は曖昧に笑って誤魔化した。
幸いばあやはそちらに深く突っ込んでくることはなく……息をつくと、本題を切り出した。
「……今日も届いていたよ。お前の望み通り、返事はしないでおいたけれど」
「……え?」
──その言葉に、背中に氷を当てられたような気分になった。
さすがに、何が、とは言わなかった。
わかっていたから。
絶対に届くはずなどないと……しかしどこかで届いたら良いのにと、今日はそればかり考えていたから。
音人様からの歌が、届いていたなんて……。
私はしばらく唇を噛み締めて思案したあと、息を整えて口を開いた。
「……お返事は、」
そう言って、顔を上げる。
ばあやを見据えて──自分にも、言い聞かせるようにしてはっきり口に出す。
「致しません。今日は帰りも遅かったし……今ごろ送っても、あちらが困るだけだと思うから」
自分の中に僅かに残る迷いを断ち切るように、すっぱりとした口調で、そう言い切った。
すると、ばあやは何か言いたげな視線を私に寄越す。
「……本当に、それで良いのかい」
静かな瞳で見つめてくるばあやに、どくん、と胸の奥がいやな音をたてた。
「……ええ」
私は、出来る限り声が震えないように努めながら答えた。
急いで履き物を脱ぎ、ばあやの顔を見ず足早に通り過ぎる。
自分の部屋に閉じこもって、一人溜め息をついた。
(返事を、しない……)
改めて、自分の決断を頭の中で反芻する。
それはきっと、とても無礼なこと。
でも……でも、私は、このまま流されて、音人様の思いもわからぬままに縁を結びたくなかった。
それに、そう。落ちぶれた名もない家の娘が、次期皇太子の隣に並ぶなど、あり得ないこと。
だから──……、きっと、これで良かったのだ。