月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~


今日はいつも以上に大変だった。女嬬(めのわらわ)から山のような量の書類が提出されて、肩も目もすっかり疲れてしまっている。でも、そのぶん明日はそこまででもないはずだ。

羊の刻あたりに橘左少史と間食をとっていたのでお腹も空いていないから、このまま寝てしまおうかしら。

そう思って畳に腰かけた所で、ふと部屋の外が騒がしいことに気がつく。

廊下からいくつもの声や足音が聞こえてきて、私は唐衣(からぎぬ)を脱いでいた手を止めた。

(何の騒ぎでしょう……?まだ誰か仕事をしていたのかしら……?)

それにしてはいささか賑やかすぎる気もする。私は小部屋と廊下の間の戸に耳をあて、様子を伺った。

……遠くてよく聞こえないけど、段々こっちに、来る……?

「──宮さま!!どちらに行かれたのですかー?」

不意に、聞こえた女の声。

……宮様?それは帝の息子、皇子さまのことであるはず。

こんなところに探しに来るなんて……何かあったのかしら?

そう、怪訝に思っているうちに、声はまた遠くなっていく。渡殿(わたどの)から、こちらには曲がることなく飛香舎(ひぎょうしゃ)の方向に向かったようだ。

……けれど、私には関係のないことだろう判断し、再び唐衣の合わせに手をかける。

すると突然、スッと控えめな音がたち、畳が四角い明かりを浮かび上がらせた。

廊下との襖障子が誰かによって開かれたと気付いたのはそれからで、私は慌てて振り向く。

「どなたです?」

相手のお顔は、背後に浮かぶ月明かりを受けて影に隠れてしまってよく見えない。渡しがそう尋ねたことで、驚いたような反応をしたことだけわかった。

「すでに先客がいたとは……これは失礼した」

じわり。
静かに、心地よく、低く穏やかな声が狭い小部屋の空間に沈み込む。

(……こんな落ち着いた声の方、いらしたかしら……?)

思わず思案してしまって、それから慌てて返事をする。

「こちら、何かに使われるご予定が……?そうでしたら、すぐに出て行きます」

口調や雰囲気から、彼はおそらく身分が高いのだろう考えながら頭を下げつつ言うと、しかし男は首を振った。

「その必要はない。私が出ていく」

「しかし……」

私は戸惑いつつ言葉を返そうとする、けれど。
その瞬間、言葉を遮るように響いてきた幾人かの足音に、私までもはっと息をひそめた。今度は先ほどよりもこちらに近い。

「まずい……」

男はそう呟くと、「失礼」と言いつつ小部屋に入ってきた。

彼が後ろ手で襖を閉めてしまうと、二畳半ほどしかない空間はすぐに闇に閉ざされた。

男との距離が、近い。

「すまない、すぐに出ていく」

腰を下ろしていた私にそう囁きながら、男も座り込み、反対側の壁に背中を預けている。

「──どちらへいらしたのですかー?……」

声は、ごく近く。心もとない襖で仕切られた廊下を、何人もの足音が通り過ぎていく。私も、もちろん彼も、わずかな音もたてないように時が経つのを待った。

やがて、小部屋に再び静寂が降りた頃。

「過ぎたか……?」

男はそう呟いて、ゆっくりと立ち上がった。

「すまなかった。私はこれで失礼する」

そのまま襖に手をかける姿を見上げて、ふと私は考える。
失礼すると言うけれど、彼はどこへ行くと言うのだろう。あの人たちから逃げていると言っていたけど、隠れられる場所が、ここ以外にあるのだろうか。

「お待ちください」

そうしたら、つい、呼び止めてしまっていて。

「あの方たちから逃れているのでしょう?どちらに行くというのです?仕事場は机ばかりで眠れませぬし、ほかの小部屋は渡殿を通らなければなりません。見つかってしまうのでは?」

つい早口で並べ立ててしまうと、男は驚いたように目を見張った、ように感じた。

「しかし、ここはそなたが……そなたを出ていかせる訳にはいかまい」

「それでしたら、わたくしはこちらの隅におります。そちらがお気になさらないのなら、どうぞこの部屋をお使い下さい」

……正直、自分でもどうしてこんなことを言ったのかわからない。

しかし、この人が困っているようだと感じたら、何故か黙っていられなくなってしまって……考えるより先に、口が動いてしまっていて。

彼が肩をすくめて「それならそなたの言葉に甘えることとしよう」とまた腰を下ろしたところまでは覚えているのだけど、そこでほっとして気が緩んでしまったのだろうか。

「おやすみなさい」、となんとか告げて、そのまま──気がついた時には、私の意識はかなり深く沈み込んでいた。

今日は仕事が多くて、疲れていたのだろう。きっと。


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