たったひとりの君にだけ
「芽久美」
そして、そのマスターが手を止めて私を呼ぶ。
やけに真剣な声色にドキッとすると、予想とは裏腹に優しく目尻を下げていた。
「待ってるだけじゃ人生上手くなんていかねえんだ。欲しいと思ったら形振り構わずいかねえと。あとで後悔したって時間は戻らねえんだからな」
そう言うと、テーブルにグラスを2つ置いた。
マスターの手にも、煙草ではなく同じ型のグラス。
「……それは、奥さんと別れてから学んだこと?」
「まあな」
「で、後悔してるの?」
「まあな。文句あっか」
「ない。けど、可哀想」
「そうだよ、俺は可哀想なんだよ。慰めろ」
「芽久美、よしなよ、古傷えぐっちゃダメだって。それこそ可哀想」
開き直ったことを、いっそのこと清々しく感じていたのに。
隣に座る瑠奈は全くそうは思っていない口調で、そのとおりの言葉をアッサリと言い放つ。
思わずクスッと声を漏らすと、案の定マスターは舌打ちをした。
「瑠奈、どうするの。すっごい怒ってるんですけど」
「ごめんごめん。機嫌直して?マスター」
「うるせー」
「愛してるから~!もっとちゃんと会いに来るから~!」
「うるせえな、わかったっつうの!さ、正真正銘、これで最後の乾杯な。俺さすがにマジで眠いから」
グラスを近付ける動作に、『はあ~い』と適当に返事をしながら瑠奈が倣う。
一足遅れたところで私もゆっくりと持ち手に触れる。
中学のときにケンカを売って来た同級生を、私は甘ちゃんだと一蹴したけれど。
結局は私だって同じなのだ。
むしろ、この年になってこんなんだからもっとタチが悪い。
けれど、いっそのことこれまでのことは仕方がないと思って割り切ることにして。
冷蔵庫に眠るプリンタルトは、この後泊まりに来る瑠奈と食べてしまおう。
たとえ冬とはいえ一週間も過ぎてしまった。
とは言え捨てるのはもったいない。
ダイエット中らしい瑠奈には悪いけれど、この際有無を言わさず手伝ってもらおう。
そして、眠い目をこすりながらではなく、より一層クリアになった頭で人気パティシエに匹敵するほどの一品を作る。
それを手に、703号室へと向かおう。
好きにならなければよかったなんて思わない為に。
二人の言葉をすんなり受け入れられた私は、カチンと最後にグラスを鳴らした。