ヒカリ


あまりの忙しさに、何かを考える余裕などなく、一日を終えることができた。
けれどスモッグを脱いで一息つくと、とたんに頭はゆきとお腹の子供のことに支配される。


飯田先生に
「おつかれさまでした」
と声をかけ、正面玄関を出る。


空を見上げた。
日はだんだんと短くなる。

夕方の六時半。
すでに暗くなり始めていた。


拓海はゆきのアパートの方向へ歩き出す。
スニーカーがコンクリートを踏みしめる。

夜が近づくにつれ肌寒くなってくる。
拓海は薄手のパーカーを鞄から出すと羽織った。


まだ決められない。
どうしたらいいかわからない。

逃げ出すこともできる。
何もなかったように、ゆきを、子供を無視して生きていく。


でもそんなひどいこと、自分にできるだろうか。


ゆっくりと歩いたにも関わらず、もうゆきのアパートは目の前だ。


街灯がぱっとつく。
見上げるとぽつぽつと小さな星が見えた。
外階段を上り、ゆきの部屋の前にたどり着いた。


拓海はずっと握りしめていた手を開き、インターホンを押す。
中でチャイムの音がする。

そしてゆきが扉を開けた。


ゆきは七部丈のグレーのルームウェアワンピースを着ている。
髪は柔らかく肩にかかり、ノーメークだ。
蛍光灯のせいで、ゆきの肌はより一層白く見えた。


「遅くなってごめん」
拓海はそう言うと玄関に入った。

「大丈夫です」
ゆきはそう言うと微笑む。


部屋にあがると、拓海は立ち尽くした。


「座ってください」
ゆきはそういうと、ベッドの前にクッションを置く。
拓海は言われるがままに、そこに座った。

「今日はお休みしてしまって、すみませんでした」
ゆきは拓海のすぐ隣に座り、頭をさげた。

「それは気にしなくていいんだ」
拓海はそう言うと、ゆきに顔をむける。
意識的にゆきのお腹をみないようにした。

「病院には行かなかったよね」

「はい」
ゆきは頷く。


拓海は両手を組んで、うつむいた。

ゆきの視線を頬のあたりに感じる。
何か言わなくてはいけない。
でも何と言っていいか全くわからない。


「拓海先生……」
ゆきが何かをいいかけるが、再び黙り込んだ。


「この間は何も言わずに出て行って悪かった」

「いえ……バスルームのゴミ箱が床に倒れていたから、見ちゃったんだなって分かりました」

「いつ分かったの?」

「先週の金曜日です。なんだか体調がおかしかったし、生理もこなかったので、もしかしたらって思って」
ゆきは穏やかな笑みを浮かべる。
拓海はなぜゆきがそんな表情をしているのか理解できなかった。


「どうしたい?」
拓海は訊ねた。

「どうしたいか……」
ゆきはそうつぶやくと、そっと手のひらで自分のお腹を触った。


拓海の胸は不安で締め付けられる。
恐怖さえ感じている。

組んでいた両手に力が入る。


「先生のことを男の人だって思ったこと、正直あんまりありませんでした。だから先生が酔っぱらったときも、あんなことになるなんて少しも想像してなかった。まるで女の子の友達を泊まらせるような、そんな気軽な気持ちでした」

拓海の目を見る。


「先生を支えて玄関に入って、ベッドに寝かせました。ベッドに仰向けで倒れている先生は、まるで子供みたいな寝顔で。あんまり可愛いから思わず見入っちゃいました。本当に二十七歳なのかなって、そんな感じで」

ゆきは笑う。


「ぼんやり先生の顔を見てたら、先生が目を開けたんです。それから『お水が欲しい』って言いました。わたしは先生にコップを渡して、ベッドの先生の足下のところに腰を下ろしました。先生は身体を起こすとお水を飲んで、それから……それからわたしのちょうど心臓のあたりを見て、言ったんです」

ゆきはそう言うと再び優しく微笑んだ。



「『ゆき先生の光は、なんてきれいなんだ』って」



拓海は思わず「え?」と声を出した。


「『先生の光はあったかい色だ。本当にきれいだ』先生はそう言って、わたしの目を見つめて微笑んだんです。その先生の表情が……まるで……愛していると言っているような、そんな目をしていて」



拓海はびっくりして言葉がでない。
ゆきは話し続ける。

「その瞬間から、先生はわたしの特別な人になりました」

ゆきは静かに拓海をみつめた。



「子供ができたって分かったときうれしかった。子供を堕ろすことなんて、少しも考えなかった。今日だって、子供を堕ろしに病院に行こうと思ったんじゃない。検査薬じゃなくてちゃんとした診断がほしかったんです」


「わかってます。先生の中には他の人がいる」
ゆきは目を伏せた。


「でも、わたし……先生のこと大好きだから……」
ゆきはそう言うと、指で目をこする。
目が赤い。


「先生のことが大好きだから……わたしが産んで、育てます」

ゆきは笑顔を見せた。



光が見えたからといって、これが鈴音のメッセージだとは限らない。
それは単なる思い込みだと分かってる。
だけど……。



「実家の両親は子供が好きだし、下から二番目の弟が高校を卒業するので、部屋がひとつ空くんです。わたしも一度そちらに帰って、出直そうと思います。せっかく慣れて来た幼稚園を離れるのは心苦しいし、みなさんには迷惑をかけてしまうけれど。でも、せっかくわたしのところに来てくれた赤ちゃんですから」

ゆきは微笑んでいる。

「わたしは大丈夫です。意外と底力があるんですよ。強いんです」

ゆきが細い腕に力こぶしをつくってみせた。



拓海はゆきを愛している。

運命の人かどうかは分からないけれど、今拓海の心にはゆきへの愛が溢れている。


それは暖かな水のようで、
ゆりかごに揺られるように、
公園のブランコに揺られるように、
柔らかく波打ちながら、
拓海を満たしている。



鈴音が「これでいいのよ」と言っている気がした。



「心の赴くまま、愛して、生きていくの」



この世に生きる全ての人々は、誰と出会い、誰と別れるのか、そして再び出会うのか、知らないで生きている。
運命の人、とよく言うけれど、その人が運命の人かどうかなんて、分かる訳がないんだ。



それでも巡り会う。
これが運命だと感じる出会いがある。



そして拓海は今、この目の前の女性と共にいることが、運命だと感じているんだ。



拓海はゆきを引き寄せて、抱きしめた。
彼女の髪が頬にさわる。
目を閉じて彼女の鼓動を感じる。


「愛してるよ」
拓海はゆきにそう伝える。

「先生?」
ゆきは戸惑って、拓海の顔を見上げた。

「君を愛してるんだ」

「でも……」
ゆきは目を見開き、拓海を見つめた。


「いつか、死んでしまったあの人は、僕に会いにくるかもしれない。でも、それが僕にはわからないし、それでいいんだ。それは、あるとき道ですれ違う人かもしれないし、コーヒーを注文する店員かもしれない。いつか、巡り会うと信じていれさえすれば、それでいい」

「救われるんだ」

「でも、今の僕の命を生きるなら、君と一緒に生きたい。そしていつか再び、お互いに年を取り、死に別れるときがきたら、君と再び巡り会う約束をする」


「それが愛するということだと、わかったんだ」


ゆきの頬に涙がつたう。
拓海は手のひらでゆきの頬の涙を拭った。

拓海はゆきを優しく抱きしめる。


目を閉じると、道が明るく照らされているのが見えた。


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