遅読家の取り置き本

 「これ、ずっと置きっぱなしだよね」
 本棚の一番上の段に置かれた一冊を手にとって友人は言った。
 わたしの部屋の本棚にはルールがあって、上二段は未読の本、読み終わったものは下段へ移動させなければならない。遅読家のくせに本を買い貯める癖のあるわたし故の決まりであり、上段が段々ゆとりがなくなると、焦って本屋に行くのをやめるのだ。
 よく覚えている、と思った。上段には常に五冊は順番待ちがいるというのに、彼はその一冊がなかなか手に取られないことを覚えているのだ。
 目敏い、と半ば感心の思いを抱いたのだが、理由は案外簡単なことだった。
 「きみ、この人の本好きだろ。
 出歩くときなんか必ず一冊は持ってたのに、この本だけ前々手ぇつかないからどうしたのかなって」
 ふっと軽やかな吐息をつきながら彼は言った。
 確かに、その一冊はわたしが愛読している作者の一冊で、夢中になった頃にはもっともっと、と一日一冊のペースで彼の作品を消費していた。
 だがいまは、彼の作品をおいてけぼりにして新たな境地を開拓中である。そういえばなかなか好みの小説が見つからなくてあちこちジャンルを紆余曲折中である。
 わたしは彼が指差す本を取り上げた。
 ずいぶん長い間触っていなかったらしく、冊子には薄く埃が掛かっていた。子供の顔を拭うように指で埃を拭き取る。と、彼がくすくすと笑いだした。
 「なんか、人形でも持ってるみたい」
 「人聞きが悪いな。それじゃわたしが幼女か乙女みたいじゃないか」
 「そんなことないけど」
 ふふ、と彼は笑ってわたしが両手で持つ冊子に手を重ねた。
 「大切な宝物ってところかい」
 「うん…そうかも知れない」
 「へえ?」
 続きを、と促すような声色で彼は首を傾げた。本と彼の顔を交互に見回し、わたしはほっと息をついた。
 「この本が、このひとの最後の本なんだ」
 「へぇ、最後ってことは他は全部読みきったんだね」
 「うん。だから余計に、読めないのかもしれない。けっこう長編シリーズが多かったけれど、いざ終わりだと思うとなかなか読むに踏み出せなくてね…。
  これを読んでしまったら彼のお話はもうないんだ。二度と彼がつくる世界観への期待は味わえない。二度読み以上では絶対にない初見独特の期待、興奮。そういうのがなくなってしまうと思ったら、勿体なくて読めないじゃないか」
 最後は自嘲するような笑いが含まれた。
 彼は最初目を丸くして聞いていたが、やがてうーんと唸るように自らの顎を抱えた。
 「勿体ない…ね、なるほど。それじゃきみはもうこの本を開くことはないかもしれないね」
 「それはそれでいいじゃないか。完成はそういいことではない。わたしの彼への愛情は完成したらいつか尽きてしまうものかもしれない」
 「そうかもしれないね、ま、終わらせないというのも愛情の顕れかもしれない」
 かなりもどかしい愛情表現だけれどね、と付け加えて彼は本を書棚へ戻した。


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