月夜のメティエ
 お昼を食べる前に更衣室に行った。朝、バタバタとしてたのでバッグにスマホを入れっぱなしだったことを思い出したから。まぁ別にどこからも連絡来てないと思うけれど……。

「……んあ」

 着信1件。2時間前だ。なんでこんな時間に。こういう着信って、何かあったのかと思うよ。その何かは大抵あまり良いことではない。

 その着信は、奏真からだった。まさかの。一番来ないだろう人からの電話だ。どうしたのだろう。用事? この間何か忘れ物でもした? そんなはず無かったし、思い出せない。いや、なんだろう。分からないけど。用事あるからかけてきたんだし。ああ、LINEやってなくてすみません。

 2時間前だけど、かけてみようか。あたしちょうどお昼休みだし。

 いったん休憩室に行って、電話かけてくることを先輩達に伝えた。新人くんはもう既にパンを食べ始まっていて「うまいっす! 朝食べて来なかったから」と感動していた。それは良かったね。

 部署がある階のエレベーター前まで行った。別にそんな所に行かなくても良いんだけど……なんとなく。
 着信履歴から奏真の電話番号をタップする。2時間前だから、もしかしたらかけても出ないかもしれない。

「……」

 3コール、4コール……出ない。手を離せない状況なのかもしれない。仕事中なのかな……。

「はいはい」

 切ろうとした時、奏真が電話に出た。

「あっもしもし」

 声がうわずる。落ち着けー!

「ご、ごめん電話出られなくて。バッグに入れっぱなしに……」

「俺こそ、仕事中にごめん」

「ううん。どうしたの?」

 落ち着かない心を全力で静めて、普通を心がけないと。もう、あたしなにやってんだろう。

「用事っていうか……。この間はお疲れさま」

「あ、うん。お疲れさま」

 「ICHIRO」のこと、焼き鳥屋での楽しい時間。あと帰り際のこと。思い出しては歯がカチカチ震えた。
 電話の向こうは静かだ。自分の部屋にでも居るのだろうか。

「忘れてる? 俺が行ってる子供のピアノ教室、来るって話」
「あ」

 思い出した。そんな約束した、たしか。

「酔っぱらって、忘れてると思ってた」

 大抵、飲みの席で交わした約束なんか実行される確率は低い。だってみんな覚えてないもん。
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