駅前ベーカリー
夏とストレートアイスティー
 夏休みはあっという間にやってきた。8月に自分で申し込んだ研修は午前で終わり、丁度駅前を通った理真はふとベーカリー前で足を止めた。午前中だけとはいえ、今日は頑張ったということでご褒美のベーカリーに入ることを決め、ドアをぐっと押した。涼しい風が出迎えてくれて、自分がそれなりに汗をかいていたことに気付くと途端に岡田のことが気になった。辺りを見回すと、レジの奥の方にいる岡田を目が自然に見つけてしまい、一旦引き返すべきかと焦る。そう思っていたら、不意に岡田と目が合ってしまった。
 目が合うと一瞬でぱあっと笑顔になった岡田にまた今日も癒される。彼の笑顔には、理真のいつでも入ってしまう力を一瞬で緩める不思議なパワーがある。

(…トイレとか入って、化粧直してから来ればよかったかも…失敗。)

 そんなことを思ってももはや手遅れで、奥の方で新しいパンを乗せた大きめのトレイを持った岡田はフロアに出てきてしまった。

「いらっしゃいませ。」
「…こ、こんにちは。」
「クロワッサン、焼きたてです。」
「一つ、いただきたいです。」
「はい。」

 香ばしい香りが鼻をくすぐったせいで、急激にお腹が空いてきた。そういえば喉も乾いていたことを思い出す。春は温かい飲み物ばかり注文していたが、今日のドリンクは冷たくて量があるものがいい。そんなことを思いつつ、岡田の持つトレイから1つクロワッサンを自分のトレイに移し、他のものも探すことにする。
 岡田は自分の仕事を終えた後、何にするかまだ迷っている理真のところまで戻ってきた。

「お悩みでしたら、季節限定の塩レモンクロワッサンもどうですか?」
「塩…レモン?」

 見た目はあまり普通のクロワッサンと変わりないが、よく見るとクロワッサンの表面に細かな粒が乗っている。

「クロワッサンの表面に塩レモンを振りかけています。中も少し入れて焼いてるとかなんとか言ってたような気がします。僕も食べましたけど、さっぱりしてて美味しかったですよ。」
「…さっぱり…レモンって夏っぽくていいですね。これにします。」
「はい。」

 理真のトレイをすっと受け取ると、岡田はそのままレジまで持って行ってくれた。

「店内でお召し上がりでしょうか?」
「はい。えっと、アイスティーのラージを1つ、お願いします。」
「アイスティーですね。シュガーやミルクはお付けしますか?」
「大丈夫です。」
「かしこまりました。」

 今日は暑さと喉の渇きを考慮すると、ごくごくと飲みたい感じがする。そのため、何も入れずにストレートティーにしたかった。それに塩レモンの味も、ストレートアイスティーだったら邪魔しないだろう。

「ごゆっくり、お召し上がりください。」
「ありがとうございます。」

 岡田からトレイを受け取って、丁度いつもの席が空いていたのでそこに座った。カバンの中から除菌シートを取り出して手を拭き、一度手を合わせて誰に聞こえるわけでもない『いただきます』を言った。お腹の空き具合からも本当はクロワッサンにがぶりといきたかったが、ますます喉が渇いてしまいそうな気がして、理真はまずストローに口をつけた。
 氷がストローに触れてカランと音を立てた。冷たくて味の主張が強すぎないアイスティーが理真の不足した水分を補ってくれる。4分の1ほどを一気に飲んで、グラスを置いた。そして早速、季節限定塩レモンクロワッサンに、そのままがぶっと噛り付いた。
 塩の粒のようなざらざら感が少しだけあり、確かにそこからほのかにレモンの味がする。クロワッサンの香ばしさやバター感の強い味との相性が意外とよく、ぱくぱくとテンポよく食べ進んでしまう。

「…美味しい…。」
「お口に合ったようで良かったです。」

 食事スペースからわずかに離れた場所で別のパンを補充していた岡田が、そう言って柔らかな笑みを理真に向けた。独り言をついうっかり聞かれた理真は慌ててアイスティーを口に含み、ちょっとした恥ずかしさを紛らわせた。

「美味しいです。とっても。夏休みの間は朝、少しゆとりがあるので…また食べに来ますね。」
「あ、そっか。夏休みでしたね。だから朝、前よりも時間帯がゆっくりなんですね?」
「え?」
「あ、いえ。理真さん、いつも早朝だったのに最近は7時過ぎとかにいらっしゃるので。なんでかなって思ってましたけど、冷静に考えたら夏休みでした。」
「そ、そうなんです…一応、普段よりは少し、忙しくないっていうか、子供たちもいないので。」
「理真さんがいつもより健康そうというか、顔色が悪くなくて良かったです。ゆっくりしていってくださいね。」
「は、はいっ…!ありがとうございます。」

(名前呼びで…固定、なのかな…?)

 あまりに自然に呼ばれる下の名前にいちいち動揺してしまう。何の気なしにさらっと呼ばれるものだから、動揺しているのは自分だけで岡田にとってはそこまで気にするようなことでもないということがありありとわかってしまい、それがまた頬の熱を上げる。
 それに、顔色のことがばれていることにも恥ずかしさがある。おそらく年下の男の子に体調管理もできない大人だと思われたいわけではさすがにない。ただ、このベーカリーに駆け込むときは少し疲れているときが多いのも事実だ。

(…本当にギリギリで生きてるなぁ、私。)

 こんな教員生活を想像していたわけではなかった。『やりたい』という熱意が消えない以上やめることができないものが多く、こうやって今はちょっとした回復薬としてベーカリーを活用させてもらっている。

(…せめて夏休みの間くらいは、しゃきっとスーツを着て、そんなに顔色の悪くない私でいよう。)

 理真は静かにそう心に決めて、普通のクロワッサンに手を伸ばした。
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