幻想
 なかなかに、暗示的な一文を放つ、と鈴音は思った。
 思い込み。
 たしかに、人は思い込む、と失敗したりミスしない限り、気づかない。むしろ気づくことを拒否しているかのようにも感じられる場面がある。初対面で、このような暗示的な一文を放つ人物に、彼女は今まで出会ったことがない。それが男性であれば尚更だ。
「謎めいた人ね。出会ったばかりだけど」
 鈴音は言った。
「人は謎に惹き付けられる」
「たしかに」
「連絡先を交換しないか?」
「展開が早いと思うんだけど」と鈴音。
「燃え上がるのが早いんだ」
 ナイフとフォークを手慣れた動作でパンケーキの中心を、恭一は切った。
「一つか二つ聞いていい?」
 鈴音は訊いた。
「どうぞ」
 恭一はパンケーキを口に運んだ。口に運んだ瞬間、顔に柔和な笑みが広がった。
「結婚してるように見える」
「見えるではない。そうなんだ」
 隠す事もなく、悪びれず恭一は言った。
「それでも私を口説いている」
「そこに闇がある限り」
「どういう意味?」と鈴音。
「意味はないよ」と恭一はナイフとフォークを皿に置きナプキンで口元を拭った。「リセットさ」
「リセット?」
「人は闇を抱えているものだ。しかし、そこから抜け出すには、強烈な体験、または、深い井戸の底から引っ張り上げる第三者が必要だ。それは長い年月を要する場合もあるし、そうでない場合もある。程度の差もあれ、人によって千差万別だ」
 恭一は、切り分けたパンケーキの一片を、フォークで刺し、口に含んだ。再び、彼の顔に笑みが広がった。
「私は闇を抱えている?」
「それは鈴音さん自身がよくわかっていることじゃないかな」
 恭一は店内を見回した。
「どうしたの?」
 鈴音も辺りを見回す。店内は賑わっていた。人も多く、テーブルには雑然と汚れた食器が置かれている。
「気づかないか?」
 恭一は探るような目つきで訊いた。
「なにを?」
「人は笑顔の仮面を被っているけど、心の奥では�助けて�と叫んでいる。そこに惹かれるし、俺を媒介にして、新たな世界を見て欲しい」
「よく意味がわからない」
 鈴音は言った。
「いずれわかるときがくる」と恭一は綺麗な歯並びを覗かせた。「答えは、遅れてやってくる」
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