幻想
 銀次が言った。今となっては二つの顔を持つ男として胡桃は認識している。彼はミュージシャンだったのだ。それも、そこそこ有名な。
 後悔。
 胡桃は考え方を変えた。人は後悔するが、進んでしまった時間の針は元には戻せない。なので後悔する人生なら、それを糧に生きるような人生、それを変えるような運命を歩みたい。
「とりあえず試用期間でお互いの関係を構築していきましょう」
 胡桃は強気と半ばやけくそが折り混ぜになった声音を放つ。
 気圧される形で体勢が後ろに仰け反った銀次は、「大変よくできました」と体勢を立て直し、その反動を使い、胡桃の首筋に唇を触れた。
「首筋に唇で触れるのが好きなんだ」
 銀次はとろっとした目を見せた。これが彼の本来の目ではないか、と胡桃が見間違う程に色気が漂っていた。胸が高鳴り、その後の展開が容易に想像できた。
 が、違った。唇に触れると思いきや、もう一度、首筋に唇を這わせた。さっきは右、今度は左。もう一度、右。もう一度、左。
 焦らす。
 その焦らしに絶えられなくなり、胡桃は自ら銀次の唇に触れた。彼が、ふっと笑ったように見えた。
 互いの唇が離れ、「たいへんよくできました」と銀次が言った。
「当然よ」
 と胡桃。
 車内からは赤城山が見え、太陽が山の頂きを照らしていた。
『荷物を運ぶという作業は困難を極めたでしょうか?しかし、それも旅の一つのイベントであります。人は助けを必要とし、助け合い、その些細な善意が、好感を呼び、人を惹きつけ、愛に変わる。りょうもう号の旅で、一人でも多く、そのような観点に気づいてくれる人が増えることを願って。そして、HELPをLOVE、に』
 最後の車内アナウンスが流れた。まばらだが、残っていた車内の乗客から拍手が涌き起こった。
「たいへんよくできました」
 胡桃は姿の見えない駅員に言い、もう一度、銀次にキスをした。ラブを押しつけて。


 
 
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