アイスブルー(ヒカリのずっと前)
「あの人、見たことある」
結城が拓海に言った。
「そう?」
「ああ。ずっと前、あの人のこと見て、拓海驚いてただろう? 覚えてるよ」
「うん」
拓海がどう言おうかと考えてるとき、家の中から叫び声が聞こえて二人はぴたっと立ち止まった。
もう一度「きゃー」という声が、ブロック塀を超えて聞こえて来た。
二人は慌てて門のところまでかけもどる。
「大丈夫ですか?」
拓海が大きな声で呼びかけた。
「だ、だいじょう……わ!」
鈴音がまたびっくりしたような声を出す。
拓海は門を開けて、庭に駆け込んだ。
鈴音は小さな庭を走り回ってた。
見ると涙目になっている。
「どうしたんですか?」
拓海が問う。
「蝉が」
「蝉?」
「蝉が飛んで来て、背中に」
鈴音が泣きながら走ってる。
「とって……」
「動かないで」
拓海は鈴音のシャツの裾をひっぱり、真ん中にくっついている大きな蝉を捕らえた。
ぶぶぶぶぶと羽を鳴らして、蝉がもがいている。
「どっかに。どっか遠くに」
鈴音が泣きながら拓海に言った。
拓海はその蝉を塀の向こうになげる。
蝉の羽音がして、どこかへ飛んで行ったみたいだった。
鈴音は真っ赤な目をして、庭の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか?」
拓海は聞いた。
「うん。ありがとう」
鈴音は顔を両手で押さえて、呼吸を整えている。
「蝉が嫌いで」
鈴音が口を押さえて行った。
「この季節、蝉だらけですよ」
拓海はそんな鈴音の様子がおかしくて、思わず笑った。
「笑わないでよ。まじめに怖かったんだから」
鈴音が言った。
「また来ますよ。蝉」
「わかってる。でも、助かりました。どうもありがとう」
門の前に立っていた結城が遠慮がちに入って来た。
「ごめんなさい、お騒がせしちゃって」
鈴音は赤い顔をしてお辞儀をした。
「大丈夫です」
結城が優しく言った。
「あ、カレーの匂い」
拓海は覚えのあるスパイシーな香りに気づいた。
「そうそう、あ、火にかけてた」
鈴音はあわてて縁側から台所に走り込んだ。
結城が「あの人、慌てん坊だな」と小さな声で拓海に話しかける。
「だよね」
拓海も小さな声で答えた。
鈴音が更に顔を赤くして戻って来た。
「慌ただしくて、すいません。ああ、なんか恥ずかしいわ」
「今日もカレーなんですか?」
拓海が問いかけた。
「そうなの。あ、でも、毎日カレーって訳じゃないわよ。えっと、拓海くんだっけ、拓海くんの来る日はたまたまカレーを作ってるってだけで」
鈴音が首にかけたタオルで汗を拭いた。
「おいしいんだよ」
拓海は結城を見上げて言った。
「へえ」
結城が穏やかに答えた。
「食べてく?」
鈴音が言った。
「いえ、そんな悪いです」
拓海は一歩さがって首を振った。
「遠慮の必要はないんだけど。でも予定があるなら」
「ごちそうになってもいいですか?」
結城が言った。
鈴音が結城を見て、笑顔を見せる。
「もちろん、どうぞ」
拓海は結城を見て首を傾げた。
人とすぐに打ち解けるタイプではなかったし、ましてや初めて会った人の誘いを受け入れるなんてこと、これまではなかった気がしたからだ。